アムール

 青い瞳が、焼き付いて離れない。夢に見た時からずっと忘れられなくて永遠にみられていたいほどに。
 逞しい背中が、脳裏に焼き付いている。あの背中に縋りたくなるほどに。
 心が、きしんでいる気がする。割れ目から黒く粘り気のある泥―――バビロニアで見たケイオスタイドのような泥が溢れそうなほどに。
 どうして私はこうなったのだろう。どうしてバグを抱いたのだろう。
 分からない。
 分からないから、先人の力を借りることにした。

◆◆◆

 全てが眠りのために静まり返った頃、一人の女は自分の部屋にて本を読み漁っていた。
「違う、違う、違う―――!」
 何かを探すために活字の海へと飛び込み、目的のものが見つからなかったとわかった瞬間現実へと浮上する。何かにとりつかれたかのように、彼女はただ何かを探していた。
「ああ、見つからない。見つからない。自分自身のバグの要因が見つからない!」
 勢いよく広げていた本を閉じて机の上に置いてからマイルームから退出する。そのあとは寝ている人たちを起こさない範囲で早歩きで図書館へと向かっていった。
「ああ、もうどうすればいいのやら……!」
 靴の音が少ししかしない廊下を闊歩し平安時代の小説家が働いている図書館へとたどり着く。深夜帯ゆえか誰もいるはずはないだろうと女は確信し、ぎぃとゆっくりドアを開けた。

◆◆◆

 そこにいたのは、図書館の守り手である一人の女性とマスターの少女に愛を囁く一人の偉丈夫だった。その後姿は彼女にとっては酷く見覚えがあり、思わずきゅんと本棚のはざまにて縮こまる。幸いにしてその男はこちらに気づかず下手な鼻歌混じりで本をいくつか立ち読みしては読んでいた。女はその男が気になったのか本棚を影にしつつ彼が本を選んでいるところを眺めていた。
「……メートルはこういうのが好きなのか」
 カジノが表紙のスパイ小説、方言から全てが始まった社会派推理小説、十人の男女が孤島に集められたクローズドサークルもの、夭折した作家のSF短編集。全てがすべて男にとっては一度彼女の部屋でみたことがあるものとすぐにわかった。男は目当ての本全てを腕に抱え込んでまた別の本棚へと移動する。
「ナポレオンさん、私の本棚見てたんだ」
 自分のことを見ていたという予想外の事実に女は少しだけ狼狽える。しかしすぐに我を取り戻して女は彼の後を追った。普段であれば歴史ものの本と別の用途に使うための劇薬一覧の本を前に足を止める彼女だったが今回ばかりは違う。ふとしたときに見てしまったものがとげとなって刺さった故かそれを確かめずにはいられなかったのである。
「―――」
 黙り込んで彼女は男の後を追う。そして9と書かれた本棚を前に男は読んでは戻し、読んでは戻しを繰り返す。
「これはメートルに……いや甘すぎるのか? これは」
 ふう、と男は息を吐きながらぱらぱらと読んで内容を確認する。うん、うんと頷いて男は本をまた一冊抱えた。本をよく読むと豪語する彼ならではの彼女とのコミュニケーション。彼は本を通して彼女と打ち解けようとしているのであった。
 女は男が選書する光景を見届けた後こっそりと図書室から出ようとした。しかし夜ということで頭が回っていなかったのかふらりとよろけて、何もないところで静かに躓いた。
「―――っ!」
 声が出ることはなかったが、転倒した時の衝撃音は静かな場所ではよく響いてしまった。当然本を選んでいた男はそれを無視できるような性質ではなく、ほんの少しだけ乱雑に選んでいた本を傍らの机において女の方へ駆け寄る。
「メートル!? だ、大丈夫か!?」
「……あ、あーちゃー……?」
 ひう、と静かに息を飲む音がした。男は大きな手を差し出して「立てるかい?」と問いかける。
「……大丈夫、です」
 女はおそるおそる手を借りずに立ち上がろうとしたが、足に痛みが走ったのか顔を少し歪ませた。
「どう見ても大丈夫じゃないだろう? それに足ひねったんじゃないのか?」
「だ、大丈夫です! 本当に……本当に」
 ほ、ほら! と女はそれでも立ち上がろうとしたが刺さるような痛みにうめき声をあげ、再び床に座り込んだ。
「といってもなぁ、足は変に動かしたりすると大変なことになるからなぁ……」
 うーむ、と少しだけ男は考えた後男はおもむろに女に文字通り背中を差し出した。
「……文字通りおぶられろ、と?」
「ああ、変に足に刺激与えちまうと治すのに時間かかるからな。それに助けもあまり呼べるような状況でもないし……」
 目の前には縋りたくて縋れなかった背中がある。男はそれに女を乗せて今こそ助けようとしているのだ。女は少し俯いた後、ずっと痛みに耐えるか僅かな時間で羞恥心に耐えるかを天秤にかけ、後者を選択した。
「わ、わかりました。ではその……」
 おそるおそる、女は男の背に手を伸ばして肩に手をかける。ぎゅ、と初めて縋り付いた体は幹のようで一人の女がしがみついても男は動じないどころかその両腿を自分の手に固定させた。
「失礼」
 そしてゆっくりと立ち上がり、然るべき場所へと歩き出した。
「……ナポレオン、さん。なんかごめんなさい」
「いいんだって。目の前で婚約者がピンチになっているのを見たらどうしても助けたくなってな」
「ですから、私は……」
「違わない。オレはオマエさんに一目ぼれしたんだぜ。だからオレはもっと蒼のことを知りたいし、蒼の力にもなりたい」
 それを聞いた女はその事実を逃がさないようにぎゅ、とさらにしがみつく力を強くする。
「本当、ですか」
「ああ、だからオレに言ってくれ。笑わず真剣に聞くし、一緒に解決方法も考える」
 それならば、と女は言葉を口にしようとした―――が、それをおぶっているひとに聞くのはさすがにやめた。
 ―――だめだ。私の心に残っている地獄を、泥を打ち明けるわけにはいかない。
「……あまりそういうの言わない方がいいと思います。とんでもないことを打ち明けられて貴方が苦しむ羽目になりますよ?」
「そうかい、それでもそれが苦しみの種ならオレはそれを取り除く」
 その言葉は甘美な救いのようで、彼女の心に巣食うバグをさらに悪化させる劇薬だった。捉え方次第では有効な方向でも最悪の方向にでも解釈出来て、そして彼女を困惑させる言葉。薬を投与された女はしがみつくように足で男の胴体に絡みついた。
「そう、ですか」
「ああ。でも出来れば言ってほしい。分からないものはどうしようもないからな」
 そして男は医者の神様がいる部屋へとたどり着く。
「さ、ついたぜ」
「ありがとうございます。ナポレオンさん」
 ドアが開き、蛇の男は二人を一瞥した後「その職員を寝台におろせ。あとは僕がやる」とだけ言ってナポレオンを退散させた。そして彼は湿布を貼られた女が出てくるのを一人で待った後、女を個室に送り一人で図書館へと戻った。

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