アルカンシエル

 カルデアが、まだ南極にあった頃。蒼は医務室に行った。左腕の傷跡からは赤い液体が流れ続けている。ドクターと呼ばれていた男はてきばきと彼女にガーゼと包帯を当てて治療を施した。
「……どうしてこんなことをしたんだい」
「云いたくありません」
「云ってしまえば楽になれるのかもしれないよ」
「……」
「大丈夫、僕は何も言わないから。ほら」
 お人よしのような笑顔。気の抜けた笑顔。それがどこか、彼女の心に響いたのかぽつり、ぽつりと独り言のように話し始めた。蒼がカルデアに来る前にあったこと、小さなコミュニティにおけるいじめの話、そしてそれの生贄となったこと。それを聞いていたドクターの表情はわからない。ただ、優しい声で相槌を打っていたのは彼女自身覚えている。
「……そっか、ここに来る前にそういうことが」
「ええ、いじめに屈した私が悪いのです」
「悪いことじゃない。それはいじめたやつが悪いんだよ。いいね?」
 ああ、と女は暗い瞳でドクターを仰ぐ。何か口を開こうとしたがドクターはそれを優しく言葉で制止する。
「こういうことは、手を出した方が悪いんだ」
 ペタリ、と包帯に医療用のセロテープを貼り固定させる。
「まあ、腕はこんな感じでよしとして……出来ればこういったことはあまりしないほうがいい」
「……」
「でもまあ、ちょっと心がつらくなったらいつでも言ってくれ。僕はドクターだし君の心を治療したりするのが仕事だからね」
「……善処します」
「むう、でもまあ僕じゃなくても君の信頼できる人に話せればそれでいいけどさ……少なくとも君はそうした方がいい。そういう人がいないのなら手記にしてしまえばいい」
「手記」
「そうだとも。どこかに吐き出せば楽になれるぞ。それに何かあったときに書いたものを渡せば話さなくても平気だろう?」
 ふう、と女は優しい医者を前にして息を吐く。顔は変わらずの無表情であれど手記の下りでほんの少しだけ、何かを受信したかのような顔をした。
「手記、ですか……成程その手があったとは」
「そうそれ。よかったらここに昔旅行先で買った使わないノートがあるからほら、あげるよ」
「え、いいんですか」
「いいんだって。それで君が楽になれるのならいいさ」
 ほらほらーと医者は目の前の女に分厚いノートを数冊押し付けた。女はそれを抱え込み、小さく彼に礼をいう。
「あ、ありがとうございます。ドクター・ロマニ・アーキマン」
「ドクター・ロマンでいいよ」
「すみません、これは一種の癖のようなものでして……」
 ぺこぺこと女は何度も礼をする。そのたびに慌ててドクターは彼女を止めさせた。
少し落ち着いたころ、彼は彼女におもむろに話しかける。
「雨降った後はね、虹が出るものなんだよ」
「それは、条件にもよります。夕方あたりで太陽が出ているときにはよく見られるといいますが……」
「まあ、それはいいとして……今は辛くても君の心に虹がかかる日はきっとくる。虹は希望の証なんだ。だから、その時が来るまで書いてみるというのも悪くはないと思う」
 遠くを見るようロマンはいう。女はその言葉を聞いても眉一つ動かすことはなかったが、ただ色とりどりのノートを見つめてしばらく見ていない虹に思いをはせた。
「じゃあ、今日はこの辺で。また何かあったらいらっしゃい」
「はい、ありがとうございました。ドクター」
 そして蒼は医務室を出る。ノートをぱらぱらとめくると灰色の罫線がひかれていた紙がたくさんあった。ほんの少し前のドクターの言葉を反芻する。そして彼女はボールペンを手に取ってすらすらと書き始めた。

それ以降、彼女はドクターと話すことはなかった。否、そのような機会に恵まれることはなかったのである。

◆◆◆

 ―――昔の夢を見た。手記を記すきっかけとなった日の話で、吐き出せる相手がいないのなら救いが来るその日まで記せばいいと教えられた日。
 何故、こんな夢を見たのかと女は回想し、それについての一つの結論を得た。
 昨日の朝あったこと。自分の醜い一面を受け止めてくれた恋人。愛する人によって嚥下された言葉。きっとあの出来事があの日、ノートを渡された日のことを無意識に重ねた結果見たものであるということ。
「……そういうことだったのですね」
 女は布団から出て、一冊の真っ白い手帳を手に取る。布貼りの青い表紙に一つの小さな星をかたどった銀の箔押しが特徴的なノート。思えばあの手記があったからこそ、思い人――ナポレオンは蒼の叫びと泥に気づいていたということを彼女は思い出した。まさか勝手に読まれていたなんて想定外であったが。何故読めたのかということについては聖杯によってもたらされる知識のおかげなのだろうか、聖杯によっていい感じに言語機能がチューンナップされているのかと少し疑問に思ってしまったが今はそれについて考えるべきではないと判断し、ノートを携えて部屋の外へ出た。
「……思ったことや自分の抱いている感情などを言葉にする、言語化する、か……」
 昨日愛する人に言われたこと、そしてそれ以前にドクターから言われたこと。口頭での言語化についてはかなり難しいが文章でならどうにかなる。今までの出来事でそう実感した彼女が出した結論は唯一つのものだった。それを実行するために必要な協力者を探すために。

◆◆◆

 暗く、まだ朝には早すぎる時間に彼女はカルデア内を徘徊する。無論ナポレオンを探すために歩き回ってはいたが図書室、食堂、休憩室に喫煙室どこを探しても見つからずただただ自分の足を疲れさせているだけにすぎなかった。
「……どこ?」
 嘆息と息切れが同時に起こる。基本的に誰も活動を開始していない時間帯故か手がかりとなる証言も少なくてただ足を無為に動かしているだけ。バーのドアも見つからず、倉庫に入ろうとしてみたけれども入る勇気は何故かなかった。
「―――はぁ」
 ふと、自分の右手の甲を見た。赤く記された令呪は未だ一つも欠けていない。一日経過したら自動で一角補充されるとはいえどうしても使う気にはなれなかった。自分の首を絞めようとして助けを求めるような図。まるで私みたいだなと思いつつも彼女は余程切羽詰まった時以外に使ってないなとぼんやりと回想した。
「そういえば、全然使ってないや」
「ああ、そういえばメートルは全然それを使ってないよなぁ。折角ヘクトールやオレと契約していてかつ困った時があったら使えばいいのによ」
「私が、どうにかできるはずと思っているから……え?」
 背後から、独り言に対しての返事が返ってきた。低く甘い聞きなれた声。振り返ると煌びやか軍服を身にまとった男がいた。赤毛のオールバックに晴れた日の空のような青い瞳。ずっと彼女を見守ってきた快男児。
「やぁ、なんか呼ばれたようだからやってきたぜ。マドモアゼル」
「……ナポレオン、さん」
「ずっとオレを探していたようだが、どうして令呪なりで呼ばなかったんだい?」
 優しく問われる質問。女は少しだけ身じろいだが男にその令呪のある手を掴まれたので観念して小さな声で呟いた。
「……いざという時に取っておきたかったからです」
「成程、成程。まあそれはそうだよなあ」
 男は手を離し、女の肩に手を置く。女はまだ慣れていないのか小さく鳴いて、顔を赤く染めあげた。
「……その、あの、なんといいますか……あ、あの……」
「どうした? 何かオレに用があ……そのノートはなんだい?」
 ふと男は女の胸あたりに目線を向けた。そこには女が大切そうに抱えているノートがある。女はそれに気づいたのかさらに俯いて、目の前の男から目線を背けた。何か言おうとすれども相変わらず蒼の口は震えていて何か言おうと思えど言えない状態。男は場所が悪いのかと考えてひょいと彼女の背と足を抱えさせて所謂「お姫様抱っこ」状態にした後彼女の部屋へと連れ込んだ。
「あ、アーチャー! 誰かに見られたらその、あの……こう、なんと」
「見られたらそれはそれでいいだろう? それにノート抱えてるんじゃ手荒なことができんしなぁ」
「……っ」
 思わず、ノートで自分の顔を覆う。彼女はただ彼の赴くままに何処かへ連れていかれることしかできなかった。

◆◆◆

「まあ、ここならいいだろう」
 ナポレオンによって連れてこられた場所は、蒼のマイルームだった。一緒に映画を見たり、話したり、懺悔したりしてきた部屋。ほら、と蒼は床に降ろされてベッドの上に座らされる。男はその右横に座った。
「……その、あのなんかすみません」
「いやいいんだぜ、それにそのノートにまつわるなにかで言いたいことがあるんだろ?」
は、と何かに気づいた女は意を決したかのように唇を結ぶ。目を瞑り数秒。その間に何かを告げる覚悟をきめる。そして彼女はゆっくりと彼に言った。
「結論から言います。もしよければ私と、交換日記して、いただけませんか?」
いった。とうとういった。女はもうどうにでもなれと言わんばかりにノートを男の方へ差し出す。男は無言でそれを手に取り、女の顔をあげさせた。
「ああ、いいぜ」
 そして男は、女の申し出をいともたやすく了承した。女は目を見開いて男の方を見る。
「その、何でとか聞かないんですか?」
「いや、なんとなく想像はつくさ。口にするのが難しいのなら文章にしてしまえばいいという考えで言ったんだろう?」
「……はい、もうお察しですよね。あの手記でしか私の本音とかそういうの書けませんでしたから。もう見られたからには共有するしかないとかそういう感じです」
「まあそんな感じだな」
 ふ、と男はノートを置いて葉巻を取り出す。葉巻の口を切り、口にくわえた後火をつけた。その様子を女はまじまじと見つめる。肺を煙で満たした後男はふう、と葉巻を口から離した。
「正直、不注意とはいえノートを見るのは悪かった。一人の女の秘密を覗いてしまったことに関しては謝る。申し訳ない」
「……いいんです。あれが切欠でこの決断に至ったようなものですから。それにこう、少しだけ嬉しかったんです」
「……どうしてかい?」
 女は立ち上がり、目を瞑って男の耳元へ自分の口を寄せた。そっと囁くように、震える声で告げる。
「あれがなければ今頃私は、酷く悪い子になってたかもしれませんから」
 ―――もう、既にあの時点で限界だったのだろう。
男はゆっくりと今までのことを思い出す。言いたいことも言えなくて、言おうとしても嫌われそうで言えなくて、自分自身を出力する気力すら奪われた哀れな少女。耳元で囁いた女はそっと離れて男の隣へと戻る。
「……ということです」
「そうか」
 男は再び葉巻を吸って吐く。そして葉巻はどこからか出した葉巻置きに置いた。
「結局、助けて欲しかったんじゃないか。オマエさんは」
「……はい」
「でも言葉にするのは怖かった。もう前のようなことを起こさないようにこの交換日記という手段をとろうとしたんだよな」
「はい」
「……それは、十分にえらいことだ。自分なりに反省をして、それを生かそうとする姿勢はいい。一歩前進だな」
 男は優しく女の頭を撫でた。女は小さくなって再び俯く。
「そうと決まれば早速今日からやろうぜ、メートル」
 女は返事代わりに小さく頷く。そしてノートを返された後女は表紙に自分の名前を署名した。

◆◆◆

「―――ふう」
 一日が、終わる。女は大局的にみて今日は何事もなかったと認識した。ほんの少しのトラブルやらお酒の騒動はあったが女はとりあえず無事に何もなくてよかったと認識しているあたり彼女自身割と毒されているなと自嘲した。
「さて……」
 女はノートを開く。今日から始めると約束した愛する人との交換日記。ペンを手に取った後に何を書こうかと思考開始した。
 ゆっくりとノートを始めるにあたっての意気込みをすらすらと、白い紙に書き連ねる。不安だけど頑張る、きちんと自分の気持ちを出力できるように頑張りたい、フランス語を教えて欲しい。そういった類のことを書いてみた。もし翌日の夜これをみたナポレオンが意気揚々とフランス語を教えることになったらどうしようか? とありもしないような妄想もしてみたりした。
「きっと、愛の言葉ばかりになるんだろうなあ」
 ふ、と口に出してみる。愛の言葉。その言葉で封じていた何かが取れたような気がした。
「―――」
 その瞬間、また泥が、炎があふれ出した。自分自身を蝕んでいたもの。自分自身を焼いていたもの。醜いと認識していたものを彼は受け入れてくれたことを思い出す。
「……あ、だめだこれは」
 口角が歪む。氷の城でのことが再生される。ふとしたことでフラッシュバックするなんて、彼女自身思いもしなかった。余程、あの出来事がいじめの記憶と同じくらい根付いてしまっているらしい。言語化するには憚られる呪いを強引に嚥下していたつけ、そして自分自身に科した罰を思い出した。幸せすぎていてすっかり忘れてた罪と罰。結局私の期待に答えただけかもしれないという懸念。一生ものの猜疑心とそれでも信じたい感情。ぐるぐるといつかのように感情が混ざり始める。
「―――お願い、お願いだから」
 私だけを見て欲しい。そう書こうと考えたがさすがにいきなり書くのはダメだろうと判断してペンを置く。元より彼にそういうことを頼むのは非常に難しいということ自体彼女は知っている。
 ナポレオン自身が醜い感情を認めてくれたとしても、自分自身は許すことは出来ない。なんて面倒なことだろうと女は嘆き、ペンを再びとる。
 ―――私をまるごと、愛して欲しい
 嘆願にも似たことを書いてノートを閉じる。それを机の上に放置して女はベッドへと潜った。左腕の痛みは未だに消えず、真の救いは未だ遠い。
しかし、少しだけ彼女はどこか暖かい感触を得た。例えそれが泡沫だったとしても、確かな救いとして彼女の中にあったのだから。それはまるで、夜にかかる虹のように。

◆◆◆

 もし君が未踏の航路に旅立つのなら忘れない事です。 この世界に起こりえない事はありません。 アナタの人生において、己の全てを支払う好機に出逢えるのなら。
どんな闇の中であろうと虹をかけるくらいはできるでしょう。
(ある男の言葉)

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