思えば、彼と過ごした時間が夢だったのかもしれません。あさましい願望を彼がくみ取ってくれたのか、決してあり得ないような話が現実になったのですから。もし、許されるのであればもう少しだけ、溺れることを許してください。現実という手によって引き上げられないように。いや、もう許されることはないのでしょうけど。
(蒼の手記より抜粋)
◆◆◆
「―――あ」
夜、もはや日課となった蒼の徘徊はまた彼女の思い人であるナポレオンに見つかってしまった。何度ノウム・カルデアの中を回ろうとも高確率で彼に遭遇して、ほだされる。
「本当に、いい夜だなマドモアゼル」
「……あ、う、うん」
女はまだ慣れていないのか彼の呼吸するような口説きに顔を赤らめて狼狽える。崩れそうになった足に力を入れて必死に耐えて、眼をそらして未だに慣れない囁きを聞いていた。
「こんなに何度も広いところで出会うなんてオレたち本当は赤い糸で結ばれてるんじゃあないか? ほら」
「赤い糸……ですか」
そっと女は自分の小指を確かめる。男は差し出された彼女の手を掴んで、口づけをした。
「……あ、あの!」
「ああ、綺麗だなぁ。細くて、白くて綺麗だ」
女は目を白黒させて、自分自身の許容量が超過したためかその場に崩れ落ちる。
「だ、だめ、いわないで」
「……ああ、すまん。だめだったか」
そっと男は手を離し、崩れ落ちた女に目を合わせるようにしゃがむ。女は男のほうを恐る恐る見た。
「……いや、じゃない。でも、こわいだけなの」
「……怖い、のか」
こくり、と女が頷く。ぷっくりと膨らんだ飾りのない唇に男の青い目線は引き寄せられるもなんとかして彼女の茶色の目に向けた。ほんの少しだけ息を呑んだ後、男は女の手を取って、ひしと腕を絡み合わせた。
「……ナポレオン、さん!」
「なら、慣らすために少し散歩するか! なぁに、ちょいとしたランデヴーといったところだ」
「ラン……」
「やっぱり、いやか?」
「い、いえ……私で良ければぜひ!」
「ウィ、マドモアゼル」
そして男は女をゆっくり立ち上がらせて、夜のノウム・カルデア散歩が始まった。
◆◆◆
「しかし、今夜はあのバーやってないんだな」
「あ、そのようですね」
「オマエさんはお酒好きだもんなぁ。部屋に色々持ち込むくらいだもんなぁ」
「わ、悪いですか?」
「いいや、むしろいいさ。オレもお酒を嗜むしともに嗜めるのならなおさら嬉しいさ」
静かに、夜のノウム・カルデアを徘徊する。眠りについている職員や夜のお楽しみに興じているサーヴァントたちを邪魔しないようにヒソヒソ声で会話をする。先程までの緊張が解けたのか女の顔からは堅さが消えて、男の問につっかえなく答えることができたり、ほんの少しだけ微笑んだりすることもあった。男は色々な彼女の顔が見たくて、様々な会話を投げかける。
「それより、結構映画とか見るのかい?」
「そうですねぇ、最近はそんなに見てませんがここに来る前は色々見ていた気がします」
「その中で好きなジャンルは?」
「アクションとか歴史ものとかサスペンスですね。アニメ映画もみます」
「そうかそうか! 結構見るんだな」
「いえ、あまり見ないものもありますよ……? 学園ものとか日常物とか恋愛ものとか」
「マジか。どうしてだい?」
「あーそれ聞いちゃいます?」
女が歌うように彼に聞き返す。男は少し、まずいところに突っ込んだかと考えがよぎったが、彼女を知る以上引き返すわけには行かないと考えたのか
「ああ、聞くさ」
とだけ答えた。女は少しだけ安心したのかふっと笑ったあと少し沈んだ声で答えた。
「単純に、平和な空間が少し苦手なだけです。物語が悲惨であればあるほど心が安らいで、物語が平和だと心が落ち込むんです」
難儀でしょう? と女は言う。その視線はもはや男を捕らえておらず、暗く続く廊下を見ていた。
「いや、人の好みはそれぞれだからなぁ。それこそ色んな人のためにたくさんの物語があるわけだし」
「……まあ、そうですよね。あと恋愛ものに関してですが……」
男はそれについての答えを出そうとしたが、流石にそれを言っては何かが崩れる気がしたのでやめた。男はただ彼女の言葉に耳を貸すのみ。
「……どうも、私には合わないものばかりなんですよね。私のそういった経験が少ないのかそれとも私のが、特殊事例なのか……」
特殊事例。彼女は今恋をしているのか。男はその対象が誰であるか知っていたが、あえて彼は問うことにした。
「なあ、オマエさんがよければ教えてくれないか? その好きな人のことを」
はっと、女は顔をあげる。その男は変わらずに眩しい笑顔で―――例えるなら、優しく照らす星のように―――いった。ああ、と女は嘆息して口を開けた。
「―――」
男は目を輝かせて待っている。それもそのはず好きな女が恋い焦がれる男の名を知る現場にいるのだ。しかしその女はただ口を開けただけで言葉を発しようとはしない。それもそうだ。女もまた男に恋い焦がれている。故に「あなたのことが好きです」といえばいいものを女はどういうわけか言えないままでいた。
「あ、あ―――」
賢明に女は声というより音に出す。しかし言葉にできるはずがない。そしてとうとう
「ごめんなさい。まだちょっと、言えそうにありません」
「そうか、わかった」
男は腕をほどき、ぽんと肩を叩いた。
「なら、言えるときがきたらいってくれ」
そう男は言い残し、夜に消えた。
「じゃあなメートル! ランデヴーは楽しかったぜ!」
残された女は膝から崩れ落ち、うつむいた。
「言えませんよ、あなたのことが好きだなんて」
終わったあとに出た言葉は届くことはなく虚空を舞うだけ。
「察してアピールなんて、無駄だということ分かってるんですけどね」
自嘲する言葉がふいに溢れてくる。この性分は一生モノだなと女はぼんやりと思ったあと、自室に帰って静かに泣いた。
◆◆◆
「オーララ、なんてこった」
男は映像専門ライブラリにて、独りごちる。素振りから想像していたが女がこれほどまで恋愛に対して奥手で、初心であることを知ったナポレオンは彼女と安心して見られるような恋愛映画を探していた。
「大丈夫だ。これは籠城戦だ。彼女の心はだいぶ解きほぐされているはずだ。実際前よりも雑談に興じる事ができたり蒼の口から彼女のことについて話すことも増えたことだしなぁ」
男は一つのロマンス映画を手に取る。トーキーと生声の間の米国の映画業界を舞台にしたロマンスものだった。確か歌が有名でたまに誰かが歌っていたというのを覚えている。男は万が一のためパッケージを開けて確認し、さらに映像もきちんとパッケージと同じものが流れていることを確認した後貸出手続きを通して外から持ち出した。
「しかしまあ、待つというのはちと厳しいな。押してだめなら引いてみるというが……どうもこういうことに限っては押したくなるんだよなぁ」
男はそっと彼女の部屋へ行く。夜が明けたら、もしくは眠れないのなら一緒に見ようと誘うつもりだった。しかし霊体化した状態で彼女の部屋にいったら泣いたあとで呆然としていたので、映画は明日にしようと彼は決めた。しかし彼は霊体化した状態で、心のなかでいってやる。
「その恋は、慕情は夢じゃない。現実だ」
果たして意味はないのではと少し自嘲するも、女がためらっているのならそれを手助けしない理由はない。婚約者と定めた女ならなおさらだ。
「だから―――夢見ていい、その願望に。溺れていい、その夢に。あり得ない、不可能という言葉の底に込められた祈りを現実にするのが―――このオレだからな」
ふう、と男は息を吐き改めて女に向かって自分の決意を告げた。
「たとえオマエさんが残火に焦がれていようとも、泥に塗れていようとも―――オレが、救い出す。オマエさんはただ、ウィと素直に言えばいいんだ。どんな姿を見せようともオレが、受け止めるから」
◆◆◆
静かに夜の帳はあけ、たとえいなくとも朝のひばりがなく頃だ。夢の終わりは近く、舞台は静かに動き始める。女はゆっくりと目を明けて卓上に置かれたディスクに目をやってどこか懐かしさにひたり、男は実体化して女に朝の挨拶を告げた。
そして、籠城戦は静かに山場を迎える。ただそれを終えても戦後処理が待ち受けている。女はただ防備を固め、男はとうの昔に固めた決意を改めて固めるのみだった。
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