ジェヘナ

「どうした、マドモワゼル」
 太陽のような笑みを浮かべて、愛する人がやってくる。ごく普通の恋人であったのなら、快く出迎えて抱き合ったり愛を語り合ったりするのだろう。だが、私はまだその段階に踏み出せない、いいや、踏み出す資格すらないように思えてしまう。
「出会った時は朗らかな笑顔を見せていたはずだが……どうしてそんな哀し気な顔をしているんだい?」
 あなたのせい―――貴方とよく似た男のせいだと云いたいがさらに面倒なことになりかねないのでぐっと堪える。また質問されるのが関の山だが仕方ない。
「別に、いつもこんな感じですよ」
「あーいや……それでも、オレは我慢ならないんだ。女がこう、浮かない顔をしていたり涙を流しているのを見るのは耐えられねぇんだ」
 ああ、貴方はきっと他の女にも同じことを言っているのでしょう。でも貴方がそういう男であるということはよく分かっております。誰かが泣いているのを見かけたらためらいなく助ける。誰かにとってのヒーローであり、可能性の光である貴方は。
「それに、アンタはオレにとっての婚約者だ。まあフィアンセを護るというのは当然のことだろう?」
「……婚約者、か」
 婚約者。その言葉に私の心がチクリと痛む。正確には傷口から黒い泥が滲みだしてあふれだすというところか。醜い嫉妬にまみれた冬の記憶が私の精神を覆う感触がした。あの時あの人があの子を婚約者と定めて、彼女のために燃え尽きた時の彼は今私のそばにいる彼とは別物であるというのは十分理解している。同一視するのは今の彼には失礼である。しかも彼はカルデアにある異聞帯の記録を読んでいない……らしい。つまり今私が考えていることはどうあがいても彼にわかるはずがないということだ。
「あの時私は、婚約を受け入れ……ましたが本当に私はそうなるのにたりえる人物でしたでしょうか?」
「このオレがそういうのだから胸を張れ、マドモワゼル」
 とん、と優しく背中を撫でられる。カルデアのマスターによると普段であれば勢いよく背中をたたくらしい。
「まあそれはそれとして……本当に気がかりなんだ。オレはなんかまずいこと云ったのかとか、何かやらかしたか気がかりでしょうがないんだ」
 ええ、貴方とよく似てる人が―――いいや、云っちゃだめだ。それに、それに私は貴方の愛を一身に受けるのにふさわしくありません。心を切り取ったら、きっとどろどろとした嫉妬が溢れて貴方を穢してしまうのですから。
「だから――」
 ぎゅ、と太い腕に抱かれる感覚がした。夢ではなく、現実。今、私は裏表のない愛情に抱かれているのだろう。
「―――どうか、辛いときは辛いと云ってくれ。アンタの痛みを、悲しみを取り除きたいんだ」
 普段の明るく豪快な声ではなく、低く真剣な声。きっと貴方は私の痛みを取り除いてくれるのでしょうけど、それと同時に自分の『醜い本性』を知られたことによる貴方の反応がとても怖いのです。一度つないだ手が離れて永遠に再び繋げなくなるような、不安。
「ありがとうございます。でも私には、ないのです」
「そうか……それならいいんだが」
 ほんの少しだけ憂いを帯びたアーチャーの声と同時に私の体は彼から解放される。
「でも本当に辛いときは辛いって言えよ?」
「わかりました、ナポレオンさん」
 そして私は彼とすれ違うように、こつこつと部屋に向かって歩み始めた。

◆◆◆

「――――っ」
 ぼんやりと、自分の左腕を眺める。
 右手には厚いプラスチックで出来た三角定規。それで何度も何度も腕をひっかき左腕には一直線に出来た赤が何本も出来ていた。
「あは、ははは……ははは……」
 それだけでは罰するのに足りるはずがなく、ポケットに入っていたシャープペンシルに持ち帰る。そして左腕にすい、すいとひっかき傷を作る。三角定規ほどではないが赤いみみずばれのようなものが出来上がった。
「しねばいい、しねばいい。私なんかはしねばいい」
 当たり前のように自分自身に呪いをかける。しかし猫の手も借りたいノウム・カルデアでは決して死ぬことは許されるはずもない。あくまで私は職員で備品。勝手に消えてはいけないのだ。
「お前なんか、お前なんか」
 赤い液体が少しだけ垂れると同時にほんの少しだけ自分の首を自分で絞めてみた。酸素が枯渇するようで、少し心地よかったが途中で苦しくなってきたので自分で手を外す。
「勝手に嫉妬なんかしやがって、勝手に北欧の幻霊を追いかけやがって、身の程をわきまえないような願いを抱きやがって―――!」
 閃光のような怒りがきらめいた後、急激に冷たくなるような感触がした。ぽたぽたと自分の顔が濡れるような感じがした。それと同時に左腕の痛みが走る。左腕への自傷行為に慣れていようとも痛覚はまだ働くことがあるという事実は私自身を驚かせた。そしてその痛みは私の思考を急激に冷静にさせていく。
「……早く、傷直さなきゃ」
 私は自前の救急キットで自分でつけた傷を処置する。今のところ肌を見せたりする機会がないので絆創膏や包帯の類を付けても大丈夫だが、夜の誘いを受けて共寝することになったら間違いなく問い詰められるだろう。
「きっと、叱られるんだろうな」
 私は道具をポケットにしまい込んで外に出る。幸い近辺には誰も歩いていない。
 ―――ジョセフィーヌのように己に素直になってみるのもいいと思うが……
「無理ですよ、素直になったら私は……貴方に幻滅されてしまいます」
 いつか云った男の言葉にぽつりと呟いて返してみる。まだ私は貴方に黒い感情を開示する勇気もなにもない。そういう意味では私は大変なる卑怯者だ。
「ごめん、なさい」
 そして私は式部さんが司書を努めている図書館へと向かう。あそこなら司書が嫌う「本を大切にしない人」に該当する彼は入ってこられないだろう。痛みを抱えて私はまっすぐ図書館へと亡命した。

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