「よし、もう動いていいぞ。ただしあまり派手に動くな。捻挫は一度やらかすと癖になるからな。お前がそういうことをやらかす愚患者でないことをは知っているが……」
「はい、先生。ありがとうございます」
「よし、ではお大事に」
医神によって湿布を取っていいという許可を得た女は借りていた本を返しに図書館へと向かっていく。慌てて走るという愚行を犯さなかったことを確認した医者はよし、と心の中で呟いた。
「よし、医者のいうことはきちんと聞くいい患者だったか。いやだが―――」
自身に確認するように医者はぽつりと呟く。しかし自ら言ったことを取り消すように言葉を上書きした。
「或る意味、愚患者だな。自分自身の心の不調を意図的に放置するなんて」
ペストマスクを外して彼女の愚行を吐き捨てる。医者はカルテに彼女のことを書き込んで、バインダーを閉じた。
◆◆◆
夜、女は本を返した後そのまま新しい本を借りてきた。眠りにつくまでの僅かな時間のお供としてだが彼女自身この時間を楽しんでいる。現実を忘れ、ただ別世界に飛び込む行為を活字を通して行っていた。ただ今日はどういうわけか彼女はそれをするそぶりは見せず、ただあてもなくノウム・カルデアの中をふらつくことにした。
「―――歩こう」
癒えたての足が少し痛む。それでも彼女はふらりふらりと歩くことにした。
幽霊のように、根無し草のように、夜の柳のように。
夜のノウム・カルデアはまるで全てが停止したかのようなくらいに静かで彼女にとってはお気に入りの時間帯だった。誰も彼女を見ることはなく、自分の思考を歩きながら整理することが出来るからだ。
「……ふう」
少しだけ息を吐いて、立ち止まる。周りの静けさに耳を傾けてみる。ごうごうとなる稼働音、かちゃかちゃと響くキッチン、ぽろんぽろんと誰かがジャズを演奏してる音。昼間であれば気にならない音たちが今静かになったことで余計に響く。
「まだ動いているところ、あるんだ」
女はそれに安心感を覚えたのか、さらに歩みを進めた。道中、何やら重厚な扉の前に眼がいく。それは資料で見たようなバーの入り口であった。
「……バー、あるんだ」
女は扉にかけられたプレートの文字を確かめる。
「……バー・ルソー?」
運命、と名づけられたバー。夜のノウム・カルデアを何度徘徊すれども気づくことはなかった扉。彼女は入ってはならないと上から言われた場所以外はだいたい訪問したがまだこのバーはなかったどころかそのバーの存在すら知らなかったのである。そもそも酒を愛好する彼女の場合、バーと酒の気配がしたら余程のことがない限りそこへとふらふらいく性質がある。当然目の前に酒の楽園への扉があるならば、彼女は何も考えず扉に手をかけるだろう。
ただ、そういや酒を飲むには対価が必要だろう。そう彼女は考察し少しだけ扉を開けるのをためらった。事実、彼女の手元には日本円と僅かなQPしかない。
「ああもうどうすれば」
あきらめるか、支払方法を聞くか。
あきらめて酒への道を絶つか、一時の恥を耐えて酒を飲むか。
深夜特有の空気に入りかけた彼女の答えは当然後者で、もうどうにでもなれという勢いで扉を開けた。
◆◆◆
「失礼しまーす……すみませんお支払方法は……」
「おやいらっしゃい、蒼君。ここの支払いはQPだヨ」
運命と銘打たれたバーのカウンターの奥にいたのは、いつぞやのホワイトデーでバーテンダーとなった犯罪界のナポレオンことジェームズ・モリアーティだった。おろした髪に腕まくりされたシャツ、蝶があしらわれたベスト。そして内装は青白い光に包まれた酒の部屋。資料で見たクラブのようだと彼女は思い、バーカウンターの一番端の席に座ったのである。
「あ、はいありがとうございます、ミスター・モリアーティさん」
「モリアーティで結構。まあ前にバイトでやったこれがすっかり気に入ってネ、今ではたまにこうしてバーをやってるわけさ」
ああ、と女は納得し手元にあるラミネート加工されたメニューを見た。
「……結構あるんですね、カクテルって」
「そりゃあ当然! カクテルはその酒の式の数だけあるのサ! 数字を変えたり代入するカクテルを替えればたちまち別のお酒に変身する。まさに数式とは思わんかね?」
「……とりあえずたくさんあるというのはわかりました」
「まあ、そういうことだ。もしカクテルが分からなければどういうものを飲みたいのか言ってみるといい。この私が作り出して見せよう」
「それでは……このスクリュードライバーで」
「ほうほう……わかった。ではすぐに」
かちゃかちゃとグラスを取り出して、何個か形が整った氷を放り込む。そしてアブソリュート・ウォッカとパック詰めされたストレート果汁のオレンジジュースをステアした。
「さあ、どうぞ」
いただきます、と女は一礼し一口だけ飲む。唇を硬く閉ざしオレンジの酸味で緩和されたアルコールの衝撃を味わった。
「……やっぱりこの味はとても安心します。こうして知らないうちに何度も飲んでアルコールに作用されていく感じ、とても大好きです」
「そうそう、まあもう一杯同じの飲むかい?」
「いいえ、今日は手っ取り早く酔いたいので別のものを飲みます。ヴェスパー・マティーニとロングアイランドアイスティーを一杯ずつお願いします。あとお酒の味をきちんと味わいたいのでお水もお願いします」
「……つぶれてくれないか、度数がすごいものを頼みながらチェイサーを頼むとは」
「モリアーティさん、何か言いました?」
「いいやなにも。ヴェスパー・マティーニとロングアイランドアイスティーとお水だね? 先にロングアイランドアイスティーを出してもいいかな?」
「いいですよ」
そういってモリアーティはがさごそと瓶をためらいなくピックアップして、長いグラスに氷を敷き詰めてテンポよく液体をそそぎ、混ぜ合わせる。
「お待ちどうさま。飲み終わったのなら言ってくれたまえ。その時にヴェスパー・マティーニを作るからネ」
「ありがとうございます」
差し出されたカクテルとお水に女は手を伸ばす。ちびちびと紅茶に似たカクテルを咥内で転がして、合間合間に水を飲む。
「しかし、不思議ですよね。まるで紅茶のようです。一滴もお茶っぱを使っていないのに」
「そこもまた、カクテルの奥深いところだ」
BGMとしてスパイ映画の主題歌がひっそりと流れている中、最低限の会話のみをするマスターと客は、夜の頂点をひっそりと過ごす。その後、がちゃりとドアが開きまた一人お客様がやってきた。
「いらっしゃい。ええと君は……」
「ボン・ニュイ、ムッシュ。ナポレオンだぜ。犯罪界のなんだか」
「そうだそうだ、ナポレオン君とりあえず座り給え。席は……」
「ああ、そうだな。じゃあ隣いいかい? マドモアゼル」
ナポレオンは目配せをして先客の左隣に座る。女はこくんと首を縦に振った後、残り僅かなカクテルを飲み干した。それを見計らって犯罪界のナポレオンは確認の意味を込めた質問をする。
「じゃあ、次はヴェスパー・マティーニだったネ。ちょっと待ってくれたまえ」
「おうおっさん、オレにもそれを一つ頼むぜ」
「ん……わかった」
バーテンダーはキナ・リレの残量を確認した後、二つのカクテルグラスにそっとジン、ウォッカ、キナ・リレを入れてステアする。そしてレモンピールを少量入れて二人の前に差し出した。
「ヴェスパー・マティーニ。さあどうぞ」
ありがとうございます、メルシーと述べた後一緒に飲む。独特のパンチの強さと柑橘特有の爽やかさに酔いしれるが彼女はそれを黙って味わい、男はうんうん唸った後に眼を輝かせてバーテンダーに賛辞を贈った。
「なあおっさん! このカクテル中々旨いな!」
「それはそれは何より。何度も何度も味わいたくなるだろう?」
「むぅ……確かにそうかもしれんな……だが……」
ナポレオンはちらりと一緒の酒を飲んだ女の方を見る。既に種類の違うグラスが並んでおり本当に中々味わえなくなるのかと彼ながら疑問に思った。
「……彼女のそばには何故別のグラスがあるんだい?」
「いやぁねぇ、ナポレオン君、なんかちゃんぽんしたいとかそういうのだと思うよ」
「それもあるんですけど、キナ・リレは既に製造中止されてますしちょっと映画とか小説とか読んで飲みたくなったんですよこれ。確かにもっと飲みたくなってしまいそうです」
女は俯いたまま早口で理由を述べる。何のことかとナポレオンは頭上に疑問符を浮かべたがモリアーティはにやりと口元をゆがめた後ナポレオンにそっと耳打ちをした。
「ほら、彼女に言うんだ」
「アレ……何度も味わいたくなるをかい?」
「いやいや一度味わったらこれしか味わえないとかそういうのだヨ。まあちょっと彼女に言ってみたまえ、今、彼女は酒を飲んでいるからこっちに気づいていないヨ」
ふう、と男は切り替えた後カクテルグラスを持ち、女に言う。
「蒼」
ゆらり、と女は顔をあげてナポレオンの方に体ごと向ける。
「なあに」
すう、と息をのんだ音が聞こえる。そして男は自然に、呼吸するように言った。
「ああ、確かに飲める機会は少ないが……それでも味を知ってしまえばこれしか飲めなくなりそうだ」
しんとする中バーの中のBGMが相変わらず流れている。女はその言葉を受けてごくり、と息をのんだあと残ったカクテルを飲み干してバーカウンターに突っ伏した。
「……あなたが、いきなりこんなことを言うなんて」
「ああ、いやその……あれだ、さっきのはカクテルの話だ」
「ちょっと! ナポレオン君!」
「そういう意味でしたか。なら安心しました」
ぽつりと女はなんてことのないように呟く。だが女はもう起き上がれるだけの気力はなく、少しろれつが回らなくなってきていた。
「……なあ、マドモアゼル。一体何を飲んでたんだい?」
「スクリュードライバーとロングアイランドアイスティー。そしてお水」
「よし、もうだめだな」
男はひょいと女を抱き上げてお酒代としてのQPを二人分置いていく。
「ありがとうおっさん! 次もまたくるぜ!」
「待っているよ……ナポレオン君と蒼君」
一人残されたモリアーティはグラスの片づけを黙々と始めた。
◆◆◆
「……ごめんなさい、こんな醜態を見せて」
「いやいいんだ。それに美女と酒を飲めたからな」
誰もいない廊下にて、女は男に抱えられて部屋に送られている。所謂お姫様抱っこされている状態で、普段であれば猛烈に拒否するところではあるが酒の力で鎧が解かされている影響からか素直に彼の腕に収められていた。それどころか無言で彼の体にすり寄っている。そんな彼女を彼は愛しく思う反面、いつもこんな感じで素直になればいいのにと言いようのない感情で彼女を見ていた。猶更彼は―――彼女自身が存在を隠している泥を知っている故にきちんと言って欲しいとすら思っている。
だが、今はその時ではないのだろうと彼は思いずっとそれを待つことにした。こちらから全て知ってることを開示するのはフェアじゃない。そう彼は判断したからである。本当はまだ別の理由はあれど彼はその時までとっておくつもりである。
「あとはそうだな、ヴェスパー・マティーニだっけか? あんなに美味しいカクテルを味わえるなんて思いもしなかった。オマエさんがいたからこそだ。礼をいいたいところだぜ」
「あれは、ただ私が気になっただけです。モリアーティさんがバトル中に云ってたからもしかしたら……と思って」
「そうか、ならそのおっさんにも感謝だな」
ハハハと男は笑う。女はそんな男を少しだけうらやましく、かつ表面上綺麗な目で見ていた。
「そう、ですね。確かにあのカクテルはおいしかったです。いつか災難が降りかかるとしても、もう一度味わいたいくらいに」
「災難、ねぇ」
「ところで先ほどのあの一度云々、貴方も知っていたのですか? このカクテルが出てくる小説とか映画とか」
「いいや、知らないが……」
「ああ、なるほど……」
女はふむ、と考え込んだ後ひらめいた顔で言った。
「であれば一緒にその映画見ませんか? ライブラリにあったはずです」
「おっいいねぇ! じゃあ明日見ようか」
そして二人は彼女の寝室へとたどり着く。そっと男は女を寝かせた後一人でライブラリに行き教えてもらった映画を見た。
「―――オーララ、なんてこった」
翌日、大慌てで彼女は「すいません昨夜のアレですがやっぱなしにして下さい」とナポレオンに土下座している姿が犯罪界のなんだかによって目撃された。
◆◆◆
「秘密、ねぇ」
土下座事件より少し時はさかのぼる。ライブラリの一室にて男は一本の映画を見終わった。
「……もうすでにオレはオマエさんの秘密を自分の意志で知ったのだがねぇ」
彼女自身、開示することは出来ないと拒んだ泥。あの日記に書いていたのは吐き出さないとどうにかなってしまうと彼女自身危惧したからだろうと男は考察する。
「大丈夫、どんなことがあろうともオレはオマエさんを救うと空かける虹に誓った。故に―――安心して欲しいんだがねぇ」
そして男はライブラリを後にする。男は彼女自身を安心させるにはどうすればいいかすぐ考え始めた。
静かに女の泥は胎動し始めて、男の意志はさらに硬さを増していく。男は彼女の心に踏み込む覚悟を当の昔に決めている。故にどこから踏み込めばいいかということを考え始めた。
救いを拒む女と、救おうとする男との籠城戦は静かに幕を開けた。
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