湖面落下

「やあ、玉雨殿。こんな綺麗な月の夜に一人きりなんて、いいのかな?」
 後方から、優し気な声が聞こえてくる。なにかよからぬ予感がした女はあわてて地を駆けて逃げようとしたが、ふわりと触れるような声色に引かれ、つい足を止めてしまった。振り返るとそこには金髪の享楽的な軍師にして琳雪の天敵が微笑んでいた。
「……奉孝殿でしたか。何の御用でしょうか」
「いや、君とは一回もまともに話せていなかったからね。だから酒でも飲みながら話でもしようと思ったのだが……だめかな?」
「何故私があなたと飲まねばならないのですか」
「……そっか、残念だ。元譲殿から譲り受けた酒があるのだが……」
「――――今、なんと?」
 やれやれと言わんばかりに郭嘉が去り際に放った一言。それは十分琳雪を引き付けるものだった。郭嘉は彼女に向き直り、腕を広げて繰り返す。
「だから、貴方のご主人から酒を譲り受けているのです。折角なので従者である貴方と一緒に飲みませんか?」

◆◆◆

「……我が主が、斯様なお酒を持っていたとは」
「まあ、元譲殿は割と堅いからねぇ。あんまり飲まないから持って行けって言って今ここにあるわけだし」
「まあ、それはそれとして……おいしいです。何杯でもいけますね。さすが元譲殿」
 月を見ながら誰もいない庭にて酒を飲む。もらいうけた酒の壺は二人に挟まれ、月は池の水面に映る。互いの顔を見ることなく、ただ言葉を交わすだけ。季節柄か、どこか寒く、ぴりりと張り詰めたような空気に満ちている。何も言わずに二人は酒を飲み、くだらない話と日々のあれこれに関する話を交わしていた。
「そういや、今日はどうしたんだい?」
「眠れないのです。どういうわけか。我が主も既に眠っておられるのでこうして散歩してたら貴方に出くわしまして」
「なるほど、でも出くわすって少しひどくないか?」
「貴方のことは苦手です。その、口説くのはやめにしてくれませんか……?」
「すまないね、次からはやめにするよ。やっぱり好きな人から言われた方がいいのかな?」
 ――――――――。
 それは、突然突き付けられた仮説。琳雪はことり、と杯を落とす。そして目に光のない状態で、言い聞かせるように呟いた。
「好きな人なぞ、いない」
 図星、と見た郭嘉は追撃を緩めずに問いかける。
「なるほど、いないのか……。ならもし誰かに恋をするとしたら?」
「恋慕など、私には不要なものです。元譲様に仕えるこの身には」
「ほう、不要と切り捨てるのか。でも君はそれでいいのかい?」
「――――何が、いいたいのですか」
「人生は一度きりだ。故に恋慕や愛に生きる、というのもまた一興だと思うけど?」
「つまり、貴方が女性を口説くのはそれ故ですか」
「さぁ、どうだか。ともかく……君は一度素直になってみたらどうだい?」
 がたり、と琳雪は壺を手に取り一気に飲み干し、答えた。
「――愛だの恋だの、そういった事柄はとうに諦めました。故に、私は私は……」
 ゆらり、と琳雪は歩きだしふらりふらりと回り池の近くにて舞う。
「間違っても、忠義と慕情の境界をあやふやにするようなことはなく」
 郭嘉の目は鋭くなり、彼女の答えを待つと同時に何かただならぬ気配を察知する。
「ましてや、主様、否、夏侯元譲様に穢れきった情欲と慕情なぞ、知られるようなことなぞ、あってはならないことなのです――――――!」
「そうか、つまり君は元譲殿に恋している、ということに……って玉雨殿!?」
 郭嘉が歩み寄ろうとした途端、琳雪は足を滑らせ冷たい池の中に落下する。いきなり弩による攻撃を喰らったかのような顔をして、背中から勢いよく落下した。
「玉雨殿?!」
 郭嘉は急いで池から女を救い上げようとするが、湖面からゆらり、と女が起き上がるのをみてすぐに介抱しようとした。
「……少し、否、飲みすぎたようです」
「いや、冷静にそういってる場合じゃない。すぐに横になって、着替えないと……」
「……お気遣い、ありがとうございます……。でも、一人で出来るので心配には及びません」
 と、琳雪はおぼつかぬ足取りで池から上がり、一人でふらふら漂うように帰って行った。

◆◆◆

「奉孝よ、昨夜は玉雨と何をしていた」
「これは元譲殿。あなたから頂いた酒を飲み交わしていたのです。それ以外には、何も」
「……では何故、彼女は濡れていた」
「池に落ちてああなりましたが私は何も、してませんよ。 彼女にすぐ横になって着替えろとはいいましたが」
「――――そうか」
「ああ、元譲殿。それと昨夜は何をしていたのですか?」
「寝てはいたが……何やら叫び声がしたのでな、それで起こされてな、すぐその方へ向かったが」
「なるほど、それで道理であなたの平服が外に干されている、というわけですか……」
「……従者に何かあったら困る、からな。気に掛けるのも当然だ」
「嗚呼、本当に彼女は幸せ者だね、うん、あとは……」
「何か言ったか」
「いいえ、何も」

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!