境界崩落――序
いつからだろうか、境界線を壊したくなったのは。とても固く超えてはならない線。どうも男は従者を見ているとその気になりやすく、かつ彼女が傷つくのが見ていられなくなる。そして危険なほど健気ときた。
「元譲殿が、私を初めて認めてくれた故貴方に仕えるのです」と彼女は言う。それだけで、彼女はこんなにも男に尽くすというものか。
「──嗚呼、身を滅ぼす真似をしなくともいいものを」
地面に寝ている女に男はそっと髪を撫でる。
「最近、お前を見ると焦燥するようになった。それに……」
ふと、次の言葉を選ぼうとして口を止める。
「──いや、やめておこう。お前がどう思っているかまだ聞けていないからな」
そっと起こさないように男は寝台の上に女を寝かせる。安らかに眠る女の顔は動くことなく幸せそうな笑みを浮かべたままだった。
「……俺は、お前のことが……」
女への愛の言葉は、最後まで発せられることはなく、そのまま寝台に突っ伏したまま男も夢の世界に旅立った。
破片境界
「――――確かに、これは元譲様がこうするのもおかしくはありませんね」
女は一人、主が眠りについた部屋の隅にてうずくまる。視線の先にあったのは暗闇の中できらめいている破片。昼間たまたま見た彼女の主が自分の姿に驚愕、そして衝撃のあまり鏡を叩き割ったのだった。その後彼は何事もなかったかのように修練、夕餉、そしていつものように曹操の元でなにやら話し合っていたが、まるで破片のことは忘れていたかのようにふるまっていた。もし主が朝起きて、破片を踏んでしまっては大惨事。それを防ぐため女は一つずつ、かけらを拾い集めた。ちくり、と鋭いそれは柔肌を刺す。
「……こんな痛み、元譲様が受けた矢傷に比べれば」
細い指からは血が滲み出て顔こそ少しだけ歪むが、すぐに作業に戻る。まだ破片はあり、全て拾い集めるとなれば血がにじむだけでは済まされないだろう。だが、女はそれを是とせず拾い集め続けた。
「この江玉雨、貴方様のためであれば、いくらでも傷つきましょう」
繰り返す感触
それは、突然のことだった。薄い唇が、女の赤く艶やかな唇に重なる。男の右目に映るは、焼かれているかのように真っ赤になった乙女の顔。女は目を見開いてじっと男を見るが、歯肉と歯は男の大きな舌になぞられ咥内への侵入を許してしまったと同時に目を瞑る。以前であれば従者であることを理由に一線を引いていた女が男女の仲になった途端、こうも自身に縋るように愛を求めている有様は、見ていて心の奥底で何かがほころぶような感触と手枷がはめられたような感触に陥る。
「――――はぁ」
息を継ぐために、二つの唇は離れ、光る小粒で飾られた銀の糸はしばらくした後ゆっくりと切れる。
「……元譲様?」
男の字を呼ぶ声がすぐそばからする。女は次に何か言おうとしたが、それはすぐ塞がれてしまった。
どうあがこうともすくわれることはなく
深夜、全て静まった時、男は濡れた女を抱えていた。どれだけ頭を冷やせども、彼は女をすくいあげる。彼女に理由を聞くと「余計なことを考えないようにするためです」と笑顔で答えた。だがその笑顔すらどことなく崩れそうな狂気に蝕まれているように見えた。
「……コウ、頼むから聞かせてくれ。その余計なことを」
「元譲殿に、聞かせる訳には参りませんよ……。私の中で、解決します故」
「だが、俺は不安だ。いつかお前がそういうことを繰り返すうちに壊れるのではないのかと」
「平気です。壊れた時は、その時です」
まるで全て諦めたような笑顔。光無い女の瞳が、男の右目に映る。
「玉雨、どうか壊れてくれるな。まだお前はここに必要だ」
「……そう言っていただけて嬉しい限りです」
月は、2人を優しく照らし、闇は女の涙を隠した。
真夜中の睦言
「──また、床で寝てるのか」
夏侯惇は床に転がって安らかに寝息をたてている従者を見て盛大にため息をついた。
「いい加減自分の詰所で仮眠……はお前自身が断っていたな、まったく……」
そっと自身の寝台に寝かせようと女の体を抱えるように持つと、ひんやりと冷えていた。女が震えもしなかったことに驚きつつ、起こさないようにそっと持ち上げ、然るべきところに下ろす。それでもまだ何事もないかのように笑顔で眠っていた。
「全く、俺といる時でもそのような顔を見せて貰えたらいいのだが……」
そっと、彼女の頬を自身の骨ばった指でなぞり、振り返って鎧から寝る時の衣に着替える。そして自身も同じ寝台に入った。目の前には愛しい女が昼間と違って無防備な姿で男の前にいる。その事実がとても、どこか彼にとっては何かが綻ぶような感触がした。
「あまり、無理をするなよ……お前を失ったら、俺は……」
その先の言葉を紡ごうとも、口から先に出ることはなく、女の唇に軽く自身の唇を重ねるだけに留めておいた。
机の上には、月光に照らされた単眼鏡と眼帯が置かれていた。
愛しい言の葉
「本当に、いいのか? 俺と祝言を上げたら二度と実家に戻ることはないのだぞ」
「もういいのです。とうに家は捨ててきましたから」
「……そういえば、そうだったな」
「もとより、これで家に戻ることがないのであれば万々歳ですよ」
女は、物憂げな眼で男を見る。一つしかない目で男は、優しく語り掛けるように彼女を見た。
「―――俺は、お前と一緒になりたくて祝言を上げたいと思ったのだがな……」
「あ、申し訳ございません……失言、でした」
俯き、指をそろえて彼に頭を下げようとするのを夏侯惇は彼女を抱きしめる形で止めた。
「お前が家のことを疎ましく思っているのは知ってる。だから気にするな」
「申し訳、ございません元譲様……」
「それと、明日からこうして二人きりの時は様をつけるのをどうか、やめてくれないか。ただ、俺の字を呼び捨てるだけていい」
さあ、言ってくれと言わんばかりに男は女の柔らかい唇に手を当てる。
「げ、ん、じょ、う」
ゆっくりと女は小さな声で呟いた。よし、と言わんばかりに夏侯惇は触れるだけの口づけをした。
いばらのよる
「――――何故だ、何故あの時飛び出した!」
男は手当てされたての女に向けて静かに吠える。普段は思い朴刀を振り回す手は傷だらけの女にしがみつくように触れていた。女は今でこそ静かに寝息を立てているが、寝床に運び込まれた時は涎を垂らしながら肩で息をしていた。射られたと思しき左肩の布は赤く染まっている。嗚呼、と夏侯惇は嘆息し一人ぶつぶつと呟き始めた。
「俺が言えることではないが、もし俺のことが大事だと思うのならどうか、どうか生きることを考えてはくれないだろうか」
そっと、男は女の頬に触れる。
「……お前なしの日々はもう、考えられん」
そして夏侯惇は夜通し女の傍らにいた。まるで悪いものから愛しい人を護るように。
くらいよる
それは、主様が帰ってきた後のことでした。私はその時夏侯惇様によって留守を任されておりまして、主様が帰ってくるのを一日千秋の思い出待っていたのです。そして無事主様が帰ってくるという一報を聞いたときは飛び跳ねたいくらい、嬉しかったのです。主様がお屋敷に戻られた時、私はそこから飛び出して彼の前に出て、跪こうとしたときでした。いきなり主様が私の腕を引っ張り、主様の寝室へと連れていかれたのです。
「―――玉雨、お前が欲しい」
血の匂いと煙の臭いが私の鼻腔を撫でると同時に主様によって押し倒されて、耳元でささやかれたのです。私が求められたという事実。それがとても嬉しくて、私は反射的に言ったのです。
「元譲様の御心のままに、どうか私を貪りくださいませ」
ですがその言葉は全て言い終わることはなく、文字通り私の唇は元譲様の口によって塞がれたのです。薄い唇と少しだけざらざらした髭が私の肌と唇を撫でる感触が、彼の存在を感じさせるようで、もしこのまま死ぬのであればそれもまたいいものかとぼんやり思った次第でございます。
―――そして、私たちはあのまま夜を過ごしたのでございます。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます