渇愛墨華ー共穢ー

「――――雨、か」
 成都にて、女は雨降る中ゆらりと外に出る。雨よけの道具すら一切もたず、ただ雨に打たれに漂い始めた。冷たい雨は無情にも女の体を濡らし、冷やす。それを気にせず女はあてもなく、雨の中にいた。だらりと伸びた腕は、どことなく空を握る。虚ろな瞳は目の前をぼうっと映していた。
「せめてこの雨で、私の血の穢れを……清めることはできないか……」
 ふと、どことないところで立ち止まり空も仰がずに雨に濡れる。体温が奪われるさまがとても心地いい。血腥いにおいが、穢れが、少し薄くなるような感覚。
そして、脳裏に過ぎるはいとしい人の顔。陽気に笑い、時に真剣な声になる男。彼に触れようとも彼女は、自分の血塗れた手を見てそれを躊躇っていた。幼い日々から続く殺しの日々。それは愛しい人と錦馬超と出会い、薄れてきたが、直ぐに蘇り悲しい事にまた逆戻り。先に蜀に彼女が入ろうとも変わることはなかった。彼女はそれを長らく良しとしてきたが、馬一族と再会し、馬岱への慕情を認識した途端急に自分の穢れを気にするようになった。故に、彼女は愛しい人に思いを告げず、遠ざけた。
寒さ故の体の震えは僅かにあれど、それが表に出ることはなかった。ここに一人来るまでは。
「あ、霜ちゃん! ここにいたの? 探したんだよぉ俺」
「……馬岱殿」
 突如、霜の後ろに馬岱が表れる。彼女は振り返らず、声だけを彼に向けた。馬岱は少しづつ歩を進める。ぴちゃぴちゃとした音が彼女の方へ向かっていき、すぐ後ろのところでそれはぴたりとやむ。
「……また、私に触れようと来たんですか? 何度も何度も、そうやって来て……物好きなんですね、意外です」
「まあ、ね。そういう君こそ、寒がりなくせに雨の中にいるじゃないのさ。こういう時だいたい外には出ないのに……」
「そういう気分なんです」
 女は両手を広げ、空を仰ぐ。まるで今の天候を受け入れるように。それでも馬岱は、彼女に近づきさらに言う。
「まあ、そうだとしても体壊すから早く戻りなよ」
「ご心配、ありがとうございます。それでも、私は」
「清めてから行く、でしょ?」
「────まあ、そうなりますね」
 女は振り返り、口元だけ笑う。だが目には相変わらず光はなく、ひとつに括られた三つ編みから髪の毛が少しほつれている。雨に濡れた体は僅かに震え、布が体にまとわりついている。馬岱の目からはとても小さく、弱々しく感じ触れれば今にも壊れそうに見えた。
「君は、穢れてなんかいないよ。どれだけ君が、血にまみれようとも後ろめたいことをしても、君は清らかだ」
「───違う。私は、既にあなたと出会う前から、とっくに血に穢れてましたよ」
「例えそうでも、君は少なくとも俺よりは、綺麗だ」
「否、否、否。私は───何度人を殺したか! あなたはまだ知らないだけで──」
 女の形相が、悲嘆に歪む。彼女のいう穢れからか、それとも別の何か、はたまた絶望か、清らかさへの憧れゆえか、女は吐き出すように叫んだ。だが馬岱はそれでも彼女から目を逸らさない。
──彼は一重に彼女の笑顔が見たくて
──また一緒に馬超と三人で笑える日々を送りたくて
──そして、そのために彼女を救いたくて
──故に、彼は正面から彼女を抱きしめた。
「ああ、知ってるとも」
 途端、女は言葉を失う。
「どれだけ君が人を殺してきたのかも、知ってるよ。生きるためにそうしてきたのも知ってる」
「───」
「でも、教えて欲しいよ。どうして、触るなと君が言うのをさ」
 優しく、労わるように彼女の頭を撫でる。未だ雨が冷たく2人を突き刺す中、霜はゆっくりと口を開いた。
「──嫌われると、思ったから」
「大丈夫、俺は嫌わないよ」
「あなたが好きだから、よごしたくなかった」
「………そっか」
「よごれたり、そういう役目は私だけが請け負うべきだし貴方は、貴方は──私に触らないで」
「大丈夫、大丈夫。だから君は綺麗だし、それに君がそれでも穢れているというのなら」
 一瞬、雨の音が止んだ気がした。そして、次の言葉が哀れな女に告げられる。
「──俺も、一緒に汚れるから。君一人で、穢れさせないよ」
 途端、女の泣き声が雨に混じり聞こえてきた。堪えたものが少しずつ瓦解されるような声。もはや涙は雨に混じり区別すらつかない。それでも、馬岱は女を強く抱きしめる。
「──だめ、何で、そういうの」
「君と同じだよ。俺も、君のことが大好きだから。最初にあった日からずっと、ずっと」
 女はそれを聞いて、恐る恐る手を男の広い背中に回す。そして、縋るように顔を埋めた。

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