引き上げられた花

 ───それは、まるで花のような男だった。

 ふらりとどこからともなく現れて、その笑みは山笠を深く被っていようとも柔和なものを浮かべていたということはよく分かるし、今でも思い出せる。
「お嬢ちゃん、名前は?」
 名前を訊くその声は、まるで聞くだけで蜜の味──といってもわからないのだけど──が浮かぶよう。長く束ねられた髪が冬の夜特有の風にたなびいていた。どこか浮世離れしたその花を目の前にして、私は言葉も返事も浮かばない。
「……どうしたの? もしかして……思い出せないのかな?」
「──名前? 私は……蓮って、呼ばれてたと思う……」
「なるほど、蓮ちゃんかぁ…」
 と、にこにこと目の前の男は笑みを浮かべたあと、私の頭を優しく撫でる。
「そっか。なら君はこれから尸魂界というところに送られるのだけど、その後はこう名乗ったらいいさ」
長い木の棒を持って、男はさらさらと何かを書いた。
「──風花 蓮」
「よく読めたねぇ。そう、これが君がこれから名乗る名前だよ」
「あ、あの、ありがとうございます……しらないおじさん……」
「知らないおじさんとはちょっと心外だな……ボクのことは春水さんと呼んで欲しいなぁ」
「あ、すみません……では、春水さんで」
 なんだかこう、とても申し訳なく感じだ。名前も分からない人におじさんと呼んでしまったにも関わらず春水と名乗る男はそれでも変わらず笑みを浮かべているのだから。それに、名字すら持たない私にそれを与えるなんて。確か尸魂界とかいうところに送られる時に名乗れとか言っていたが……あ、それについて聞かなければ。
「その、すみません。そうるそさえてぃとかいう所って……どういうところですか?」
 そう聞くと春水は何か思い出したかのようにはっとした顔をした後また元のような優しい微笑みを浮かべて答えた。
「蓮ちゃん、尸魂界というところはね、えーと分かりやすくいえば死後の世界、というところかな?」
「死後の世界、ということは私はしんじゃってるのか」
「そう、で普通人は死んじゃったらそこに自動的に送られるのだけど……でも何かしらの未練を残して死んじゃった人は現世に留まるわけ。その霊を尸魂界に送るのがボクの役目って訳」
「もしそのままここにいたら?」
「……あまり言いたくはないんだけど、化け物になる。それをこう、倒してから尸魂界に送るのもボクの仕事だ」
「なるほど……」
 このままここにいれば化け物に変容する。その言葉には不思議と恐ろしさすらなく、むしろ救いのように聞こえた。そうなれば、私は生前なしえなかったことが成し遂げられるのかとすら思える。であれば、今は尸魂界というところに行く訳には行かなくなるというのは自明の理だろう。
「だから今、ボクがここにいるわけで、君を──」
「化け物になれるのなら、私はそれで構いません」
 一気にただでさえ寒い夜が、冷え込んだような感覚になった。にこにことしていた春水さんの顔から笑みが消える。
「なんで化け物になろうとするんだい?」
「私の願いのためです。化け物になれば、人を殺せるようになるんですよね?」
「そうだが、はっきり言おう」
 ひゅう、ととても寒い風が強く吹いた。枝がかさかさと揺れ、夜空は私を責めるように輝いている。
「絶対にそれをしては駄目だ。地獄に落ちるぞ」
 軽薄そうな声から一転。まるで私を脅すかのような調子に変わった。だがたかが地獄。そこに落ちようとも私は構わない。
「その口ぶりじゃあ、復讐したい相手がいるようだが……余程の悪人であればそいつは地獄に堕ちる。だから蓮ちゃんが自ら化け物になってでもする必要は」
「ありますとも。私の気持ちの区切りを付けるためでもありますから」
 春水さんは少し考え込んだ後、私の両肩に手を置いた。
「いいかい、蓮ちゃん。さっき僕は別の場所でその化け物と戦ってきたところだ」
「……」
「それはとっても強かったし、僕が来なかったら危なかったと仕事の仲間が言っていたんだ」
「そう、だったんですか」
「それに、その化け物はとっても悪い人から変わった霊、というか悪霊でね……よっぽど悪いことをしてきた、というか弱いものいじめをした、いや、たくさん間接的な殺人を犯したのだろう。地獄に送られたって訳だ」
 突然、私の奥がぞくりとした。春水さんは何を言っているのだろう。今私の前にいるのは誰だっけ。私は今どこにいるのだろう。今の季節はいつだっけ。全ての感覚が黒い泥に飲み込まれたようになり、全部閉ざされたように感じた。
 くらくて、つめたくて、さみしくて、でも、それはとても慣れ親しんだ感覚だった。故に、動くことは出来なかった。しかし、何故、何故か私の肩に暖かい何かが振れていた。
「ごめんよ、辛いことを思い出してしまって」
聞いた事のないような程ひどく優しい声がした。それはまるで春の陽だまりのような温かさだった。やっと私は今、そっと太い指が私の目元を拭っているという感触を知って、初めて私は涙を流しているということを知った。そして、彼の言葉でようやく自分の【死】について思い出した。今の季節とか、今の状況も、やっと思い出した。
「───」
「いいんだ、なーんにも言わなくていいよ、蓮ちゃん」
もし、誰かを宥めるという言葉があれば、正しくこの状況がそうなのだろうか。ただ私は彼にそうされることしかない。
「春水、さん」
「大丈夫、何も君は怖がることはない。君が恐れてる人たちは尸魂界にいないから」
 ぽんぽんと春水さんが私の背中をさする。そして、私を黒い泥に落とした人はいないという言葉を聞いて、ちょっとだけ安心した。
「だから、あっちにいって君は新しい生活を始めればいいさ」
 私を抱き締めていた逞しい腕は離されて、そして男は剣の柄をこちらに向ける。
「……あっちでも、私は、大丈夫、ですよね?」
「君次第、といいたいけどきっと大丈夫さ」
 ぽん、と剣の柄が私の額に押される。すうっとどこか晴れやかになるような感覚がした。
「その、えーと、春水さん、ありがとうございます。初めて、悪意ない人と話ができて、そして、私に名前をくれて」
「いいのいいの。ボクも楽しかったよ? かわいい蓮ちゃんと話すことができてさ」
「ま、また──会えますよね?!」
「ああ、きっと、会えるさ」
 それが、京楽さんから聞いた最後の言葉だった。最初で最後に交わせた悪意なき会話。それがあったからこそ私は、あいつらと同じ道を歩まずすんだのかもしれない。

◇◇◇

「……まさか、あの虚が蓮は蓮はといってたけどまさかあの子とはねぇ……」
 京楽春水は、一人沼の縁から離れ八番隊員と合流する。先程倒した虚が地獄に送られたのを見届けた後、少し見回って見た結果、その蓮という少女と出会い、尸魂界に送ったという顛末だ。虚の話によれば、孤児だった[FN:蓮]をよってたかって筆舌に尽くしがたいほどいじめた結果、先程の黒い泥から彼女の遺体が上がった。しかもそれが初めてでなく何度もそういったことを繰り返したという。虚になったあとでもそういったことを繰り返しており、ちょうど蓮と生前のように関わろうとした結果、地獄に送られたという。
「まるで本当にはすのように清らかな子だったけど、まさか黒い泥に身を投げたとはねぇ……」
 春水は足元に咲いていた名も知らぬ花をそっと泥に投げ入れる。
「せめてあっちで、幸せになっておくれ」
 祈るように呟いた声は誰かに聞こえることもなく、ゆらゆらと投げ入れられた花は浮かんだままだった。

「そしてごめんよ、嘘をついてしまって。君は既に地獄には墜ちないことが分かっていたのに、でもボクは──」
君に道を踏み外して欲しくなかったんだよ。その言葉は誰かに聞こえることはなく、冬の夜空にそっと消えていった。

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