7-5

「あ――ぐ、あ、き、さま――!」
 男のうめき声とともに氷が割れる。ゆっくりと飛んでいった方向を見やると苦悶の表情を浮かべた月桂冠の男とスレンダーな女が倒れ伏していた。男はほぼ凍りついていて動く気配はない。女は右手だけやられている。女はすぐに立ち上がり胸元からあのときと同じようにコンパクトを取り出した。
 しかしスティーブンは器用にそのコンパクトを蹴り飛ばす。乾いた音は観客席へ遠ざかっていった。
「クラウス、男の方を頼む!」
「ああ」
 そう彼が叫んだ直後、血で武装した紳士は勢いよく壇上へと駆け上がる。十字に巻き込まれた観客たちが立ち上がる気配はない。クラウスさんはスティーブンさんの背後に倒れ伏している記憶王のもとに駆け寄ったことを確認した後、スティーブンさんが一呼吸を置いてこちらの方へと向いた。
「きちんと、言葉にしてくれてありがとう。今宵」
「よかっ、たです。よか、った……」
 視界がにじむ。彼の顔が、よくわからない。わかることといえば彼の後ろでクラウスさんが記憶王になにか聞いていること、そしてスティーブンさんは八角さんの方に向き直っていることくらいだ。視覚に割いたリソースを聴覚にもっていく。
「さて――オクタヴィア、檻の鍵はどこにある」
「それを聞く? 裏切るような女を手元に置く気?」
「モノとしてしか見ないところに引き渡すつもりはない」
 どん、と男は足を踏み鳴らす。きん、と地面が凍りついた。おそらく次はないだろう。
「モノ? 私達はアレを有効活用しようとしただけよ。だからこそあのオークションを……」
「そうか」
「それよりも、私ばかり構っていいのかしら?」
 ほら、とオクタヴィアは左手で背後を指さす。
 そこにはすでに冷凍された記憶王のからだがぴきぴきときしんだ音を立てていて、そして――がたがたといいながら起き上がってきた。
「痛い――ああ、痛い。痛いなぁ―――!」
 急速に冷凍された箇所が元の皮膚の色になっていく。彫像は瞬く間に色を取り戻し何事もなかったかのように指をなめらかに動かした。これが――血界の眷属。死すら超越した化け物。ランランと目は輝かせて彫像は軋みながらも立ち上がる。それでもなおクラウスは彼を見据えて拳を構え続けていた。
「レオナルド、お前は安全な場所へ待避しろ」
「は……はい! クラウスさん、スティーブンさん、お気をつけて!」
「逃がすか――!」
 記憶王は手を振り上げ赤黒い泥を生成するもすぐさま赤い十字架に塞がれる。苦々しい目で男は紳士を見据えていた。
「まったく理解ができないな、牙狩り。なぜ、何故――折角の好機をお前たちは踏みにじる!? ふざけた名前の王と契約までしてやっと訪れた忘却という大罪から解き放たれる好機を!」
「その好機で苦しんでいる人がいるからだ」
「その苦しんでるものが忘却によって苦しんだとしてもか!?」
「――ああ、ただ私からいうことではない」
 クラウスさんと同時にスティーブンさんが重々しく口を開く。
「その言い分だと、君も忘却されることによって苦しんだのだろう。ただそれは彼女もまた同じだ」
「ああ、そうだとも。我が主――主は、元老院に――」
「なるほど、ローマか。だが――誰かを虐げていい理由なんて何処にも、何もないさ」
 静かに冷えていく部屋の中、スティーブンさんの言葉が静かに響き渡った。
 引きかけていた涙が、また溢れ出す。常にオクタヴィアがこっちを向いていようとも――届かぬ星に触れたくて思わず手を檻の中から伸ばした。穢れていても、触れるに値せずとも、ただ、伸ばす。
 そうした途端、記憶王がこちらを向く。以前厳ついカエサルのような顔つきは変わらずにそれでいてどこか気の抜けたような顔をして大声をあげた。
「オクタヴィア、シェースチをあの部屋まで輸送しろ! 傷ひとつなく運べ!」
 その言葉と同時に、記憶王は足元からでた泥を以てしてクラウスごと地面にずぶずぶと引きずり込んだ。
 ――しかし彼は恐怖せず、ただそのまま記憶王と対峙し続ける。沈み切る間際、彼は重々しく叫んだ。
「スティーブン! 今宵を護れ!」
 名を呼ばれた男はただ黙って頷き再び足をふみならそうとする。しかし――先にオクタヴィアが私の手をばちんと叩き落とした。鋭い痛みに呆然としているうちに何かをいじっている音が鳴る。がちゃがちゃと何かがハマって金属音がした瞬間、麻痺した私の右手が引っ張られた。
「出ろ!」
「あ――」
 そうすべきとあらかじめ仕組まれたかのように舞台袖へと強制的に吐き出される。フラフラとした左手は誰かに引っ張られるもすぐにすり抜けてしまった。低い声がとおく、遠くから聞こえて消えていく。そして気づいたら、舞台から遠い場所につれていかれた。
 また、戻るのか。冷たい場所に。それでも、いやだ。戻りたくもない。戻りたくないが――好きな人と一緒にいられるはずがない。クラウスさんが何処かに言ってしまった。スティーブンさんはぼろぼろで――それならば、わたしは、どうすれば。思い詰めるな、迷惑がかかるとか考えるなとレオナルドさんは言ったがそれでも――思いつめないなんて、できるはずがない。でも、いたいの、いたいのだけは――わるいゆめをみるのは、いやだ。
「――――――――――――――――――や、やだ」
「何がいやなんだよ、サカモトさん。お前の帰るべき場所はこっちでしょ」
「……やだ、やだ」
「駄々をこねてもどうしようもないって理解してるはずだよねぇ!?」
「いたいのは! もういやです!」
 極彩色をまとった彼女の手を強引に振り払う。その勢いで何かを落として割れた音がした。瞬く間に薬品のような匂いが充満していく。オクタヴィアは何かを認識したかのようにす、と浮き出た血管をおさめてうんうんと頷いた。
「そうか、サカモトはもういやなんだね」
「……」
「でも外に出たら貴方の味方はいなくなるんだよ。それでもいいの。昔から貴方のこと知ってる人は私しかいないんだよ」
 ほら、今からでも遅くないよと平然としたハリボテの笑顔で彼女は左手を差し出してきた。
 きれいに着飾った彼女の手。私のことを指さしてきた手。きっと手を握った後は私に見えるように消毒をするのだろう。
「――私は、わたし、は、じゆうに、なりたいのです」
「そう、自由。でも貴方に自由なんてないのよ。その頭で出歩いたらまた利用されるだけの――」
「これ以上はもう、何も、言わないで―――!」
 彼女に踵を返し、手元にあった瓶を彼女に投げつける。
 高いラベルの液体がアルコールの匂いとともに散乱していく。何度も見た蔑む目。あの目を、また利用されるだけと言おうとした口を、手を外に出してはいけない。
 なにか彼女が叫んでいるが何をいっているのかわからない。
「好きな人が、感情とか持っていいっていってたから、そのままでいいといってたから――私はこうするのです」
 食器が、ガラスが、あらゆるものが地に落ちていく。狭い中逃げて逃げて入り組んだ袋小路へと誘いこまれていく。だが、これでいい。その袋小路は正しくパーティ用の棚だった。クラッカー、蝋燭、小さな箱。『ハッピーバースデー』とゴシックフォントで書かれている箱を手に取ると再びオクタヴィアは何かいってきた。
「――ねえ、それ、正気なの? もう既に正気なんてなかったの?」
「わからないです。でも……これで死ねって貴方、言ってたから。死ぬ意思と自由があるならこうするって、私は決めてました」
 箱の側面に木の棒をこすりつける。ゆらゆらと揺れる橙色を見ているうちに優しい光景――観覧車越しの夜景が浮かんできた。でもそれは小さくて、それでいて――脆い。
 火の付いたそれを手から離す。ぶちまけられたアルコールに勢いよく火がついて燃えだした。熱くて、息が詰まって、意識の焦点が合わなくなっていく。
「て、てめえ……! しなば、もろともって、か……!」
 瞬く間に煙が充満していく中で部屋の片隅にじっと蹲る。警報機は鳴り響きスプリンクラーも作動したが火の勢いは止まらない。
 煙の向こう側には這ってにげるオクタヴィア。今は正真正銘ただ一人。こうすればきっと脳も使い物にならなくなって機密性は保たれたまま機密文書を灰にできる。
「……こうすれば、私は誰にも……」
 めいわくをかけなくてすむ。
 そう言おうとしたが喉は許してくれなかった。スプリンクラーの雨と火の海でかんがえることすらおっくうになってきた。
 かすんでいく。ひが、きらきらしていて、いつぞやのかんらんしゃからみたこうけいそのものだ。
 いっすいのゆめ、どうわのようなこうけい。ただ――いうべきことをいわなかった報いだろうか、すきなひとにはもうあえない。
「ごめん、なさい。すき、でした」
 てをのばす。むだだとわかっていようともさいごのこえをだした。ゆっくりときらきらしたけしきにさよならをするように。

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