7-6

「――――――」
 こえが、きこえてくる。思ったより地獄からのつかいはやってきたのだろう。じごくのそこはつめたいとよくいうし、とてもひえているのはそのせいだ。
「――コヨイ、コヨイ」
 わたしのなまえをよぶひとがいる。さばかれるときはきたらしい。めをゆっくりとひらくとすりガラス越しの世界にひとかげがみえた。
「返――し――てくれ、コヨイ」
「……は、はい」
 よばれるがままに、へんじをする。喉が焼けるような熱さは既になく、ひんやりとした空気が口内を刺した。そうか、わたしはうらぎりものだからじごくのそこにおちたのか。であれば私をよぶひとは獄卒で、裁判官のまえにつれだすだろう。たちあがろうとしても力ははいらず、つめたいゆかにすわりこむことしかできない。
「立てな――か。手を伸ばす――はでき――い」
 ぼやけた視界に目いっぱいの薄橙。それが手であることはかろうじてにんしきできる。どうやらそれをつかってたてということらしい。
 ゆっくりとめのまえにさしだされたてをとってみる。ふれたしゅんかん、あたたかくてとけそうなきがした。
「――おむかえ、き……たのです……ね」
「あー、コヨイ、君は――いって――んだ?」
 ぐい、といきおいよく腕を引っ張られてぬのにかおをうずめられる。抵抗するちからはすでになく、そのままおむかえのひとの胸の中にきつく、かたく収納された。引き寄せた彼の手は柔らかく私の胴を掴んでいて――もう片方の手は、私のあたまを撫でている。
「今宵、僕がわかるか?」
 酷いくらいに優しく低い声、充満するアルコールの匂い、焦げた部屋、炎の名残。
 世界ははっきりと見え始め、意識が明確になっていく。
 見覚えのあるシルエット、色合い、顔。短い黒髪に左の顔の傷跡。
 紛れもなく、間違えようもない彼が、もう逢うことは出来ないと思っていた彼が、そこにいた。
「す、すてぃーぶんさん、ですか……?」
「ああ、そうだ。君を――今宵を、助けに来た」
 逃さない。そう言わんばかりにスティーブンさんは更に強く私のことを抱きしめる。一気にシプレの香りが鼻腔を支配した。
 暖かくて、ここちよくて、処理が麻痺していく。腕の中から抜け出そうとして動いてみても私の腕は動かない。
「離して……ください。わたしには、まだやるべきことが……あるんです」
「それは、なんだい」
「私を処分すること、です」
「なんのために」
「後始末をしないと、迷惑が……かかるからと、判断した、ためです」
「迷惑とは思っていない。確かに君は話すべきことを長らく話さなかった――いいや、話せなかったがそれについてはひとまず帰ってからにしよう」
 どうということのない調子でスティーブンさんは返し続ける。処分に対して否定もせず、肯定もしない。しかして彼は私を連れ帰る前提でなにか物事を考えているらしい。叱責とか、事情聴取とかは、これから灰になる私にとってはどうでもいいことであるはずなのに。それなのに――それなのに、この期に及んでどうすればいいのか算出できない。
「――ところで今宵、死ぬ前に一つ聞いてくれないか。こんな状況下で言うべきことではないことかもしれないが――どうしても君に言いたいことがある」
 静かにスティーブンさんは私の頭を撫で始める。何も言わないで首を縦に振ると彼はありがとう、とだけ言って口を私の耳元に近づけた。
 
「愛してる、今宵。君のことが好きだ。観覧車のときに見せたあの笑顔が――大好きだ」

 

 ――――――――――――うそ。
 あの書き置きの返答なのか、彼がずっと思っていたことであるかはわからない。ただ、そんな言葉を向けられてどうすればいいのか脳の処理が追いつかないことは事実。こんなときに、どう返せばいいのかわからない。好意の言葉をどうとらえていいのか、思っていた人から向けられた告白を、どう扱えばいいのだろう。
「どうして、ですか」
「俺がそう思った。ただそれだけのことさ」
 精一杯あるだけの思考回路を総動員して声を振り絞り、上質な布を握ってしがみつく。そのことを気にしないかのようにスティーブンさんは歌うように、ただそれが当たり前であるかのようにいった。
「……うそ、ですよね」
「嘘じゃないさ」
 頭を撫でていた彼の手が私の顎に移動する。そこに触れられた途端、仕組まれたように私の顔が上がった。きっと彼から見た私の顔は酷く醜いものだろう。それを意に介さないように彼はじっと私のことを見続けている。
「君の、答えを聞きたい。書き置きで知ってはいるが――今宵の口からきちんとききたい。死ぬのはその後でいいから」
 促すようにスティーブンさんの指が私の唇を撫でる。触れるか触れないかの距離感でなぞられて――白い息が口から溢れていく。そう認知したときには既に遅く――気づけば、声は言葉になっていた。
 
「――好きです。わたし、スティーブンさんのこと、愛してます。はじめてやさしくしてくれた人、でしたから」
 
 眼の前の彼はそれをきいて無言で唇を撫でていた指で私の目元を拭った。もう、なにをいえばいいのかわからない。とうに壊れた言語化機能はひとりでにうごいて、ことばを放つ。ただおもいのままをくちにする。
「これからわたしは死にますが……もし、もしも許されるのなら、しぬまでのあいだ、あなたのそばに……いたい、です。なんでも、なんでもしますから」
「なんでもするのかい。それなら僕のわがままを聞いてほしい」
「は……はい! なんでもわたしにお申し付けください!」
 変わらない笑顔のスティーブンさんは私を抱きしめている腕を離して、私の両肩に手を置く。何度も誰かにされたこと。もう、死ぬのだからどんなに恐ろしいことをされても構わない。ただ――彼にだけは、されたくない。晴れやかな矛盾がぐるぐるとうずまく。彼の口が、開く。今か今かとその司令を私は待ち望んだ。
「一緒に帰ろう、今宵」
 そういうや否や大きくて温かいスティーブンさんの手が私の左手を掴んで優しく引っ張る。何をいわれたのかその真意すらわからないまま引っ張られていく。ただ何故かそれがここちよくて、その腕の力に気づいたら身を委ねていた。おぼつかない足取りではなく、今度はきちんと地面を蹴って彼に引っ張られるままついていこうとした途端、足首がなにかに引っかかってしまう。否、なにかに――掴まれていた。
「あ――」
「逃さす、ものか……!」
 薄汚れた女の左手が私の足首をむんずと掴んでいた。すすに塗れていて誰であるかは判別できない。残った力でなんとか足を振り払うも転倒した拍子に右足首に刺すような痛みが走った。
「あんたの居場所は、そこじゃないんだよ坂本……!」
「ごめん、なさい。私は――彼についていかなければならないのです。そう、彼と約束したから」
 誰かわからない人を一瞥して、何も言われずに広い背中へと背負われる。氷が鳴る音を聞きながら私はスティーブンさんに背負われて部屋を去った。

 

第七章 終

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