がらんどうの噂話

 桜の花が地底より犠牲者を吸い上げて薄紅色の花びらを撒き散らし、担任の先生が進路を決めろと壊れたスピーカーのように訴える中でその未来すら見出せずにうだうだしている頃のことである。私はその教頭先生と初めて話らしいことをした。
 きっかけは、ただ養分を嘲笑う桜を見上げていたときのこと。その先生は私に話しかけてきたのである。
「おや、四条さん。どうかされましたか」
「……教頭先生、別に、なんでもないです」
 ただの現状確認。はたからみればなんともないような日常会話であれども、きちんと私につけられている個体名を呼ばれただけで足が地につかなくなりそうだ。担任からも名前を忘れられるのがよくあるからなのかそれとも人に名前をよばれなれていない故にそうさせたのか。わからない。
「そうですか、何か物思いに耽りながら桜を見上げている姿がつい気になりましてね」
「物思い」
「ええ、はい。何か悩み事でも?」
「いいえ」
 そんなモノ、ある訳がない。
 あったとして打ち明けてもどうにもならないことは私自身、よく理解している。胡散臭いだの、姪っ子の生徒会長とはえらく違いそうだのと噂が流れている先生相手であれば、なおさらだ。緩くうねる長い銀髪に、煌めく緑と赤のオッドアイ。そしてがっしりとした長身を包む灰色のスーツの風貌はもはや教師というより、教師の皮を被った別の何かといったほうがいいだろう。
 その別の何かは眉毛をハの字に下げて大きな瞳を伏せる。
「そう、でしたか……。すみません、如何せん私にはそう見えたので」
 いえ、気にしないでください、先生。
 当たり障りのなさそうなトーンと言葉でどうにか切り抜ける。そのわずか数秒後予鈴が鳴らされて、ばたばたと足音が不規則なリズムで聞こえてきた。
「おや、どうやらここまでのようですね。それではまた会う機会があれば、お話しましょう?」
 はい、先生。
 無機質な牢獄に輝く白銀の糸は揺れ、黒革の手は私の肩を優しく叩く。
 どこかしっかりしているようでかつ、浮世離れしたような男の人は、そうして私の横を通り過ぎて行った。僅かな香りを残して。
 

 

「ねえ四条さん……だったっけ? さっき教頭先生と話していたっぽいけど何話してたの?」
「あってます。……それで、仮にそうだったとして聞いてどうするのですか?」
 何事もなく授業が終わり、帰りの会の前の掃除の時間のことだった。同じ掃除の班に配属された同級生が仮面のような笑顔で問うてきた。意図が、読めない。答えを聞いてあることないことを肥大化して吹聴するくらいであれば何も話さないほうがいい。
 それに――なんとなく、あの残り香と共にある記憶を他の人と共有するのは気が引ける。
 だから適当に、いなすことにした。ただ同じ班にいるというだけであればそのうち飽きるかもしれない。
「別にー? なんとなく興味があっただけー」
「なるほど、……特に他愛もない会話でしたので話すことはありません」
「どうして……? 私たち友達でしょ?」
 その言葉とともに同級生は突然掃除用具を地に落として両手をいきなり広げる。
「友達……? どうしてですか?」
「いや、同じクラスで同じ掃除の班だから……だめ?」
「だめです。掃除に戻ってください」
 えー、とぶつぶつ同級生は掃除用具を拾い上げて清掃を再開する。
 これでいいんだ、と今度こそ同級生に背中を向けて吐き掃除を静かに進めようとした時だった。そういえば、と同級生は思い出したかのように口を開く。
「でもあの教頭先生と仲良くしない方がいいと思うよ? 噂で聞いたんだけどなんかスモレンスクってところで詐欺行為をしていたとかなんとか……絵や写真から人かなにかを出そうとか云々で……」
 なんだそれ。そんな怪奇小説じみたことが現実にあるはずないだろう。臍でお茶どころかサモワールが沸きそうだ。
「で、ね。実際にそれやられた人が私の知り合いでいたんだけど……あやっべ」
 同級生の間の抜けたような声がする。喋りすぎたのだろうかと顔を上げた途端、そこには――うわさのちゅうしんじんぶつが、目を見開いて廊下の窓越しにこちらを見ていた。
「四条、さん」
 ガラス越しでもわかるくらいに鮮やかな翠玉と紅玉。大きな口に白い歯。その舌と喉で呼ぶは私の、みょうじ。
「あ―――」
 後ろを振り返ると同級生は何もなかったかのように掃除をしている。私もそれに倣い、そうしようとしたが何故かあの瞳の輝きが再びちらついて軽く会釈をするしかなかった。ちがう。さっきの小説じみた噂を信じているわけではないのですが――ちがう。ちがう。
 こつこつ、こつこつと、室内用の靴音が鳴り響く。端から端へと通り過ぎていき――完全にそれは、聞こえなくなった。
「ねえ、やっぱり何かあったの?」
 私は黙って首を横に振る。
 ただ静かに、否定と肯定しかせずに塵鳥を手に取り清掃の終わりを告げる鐘がなるまで無心に掃除に取り組んだ。

 学校の一日が、終わる。鈍色の空であるからか余計にこの無機質な牢獄に影を落としているように見える。そこから逃げるように或る生徒は家路へ、部活へ、習い事へと飛んでいく。しかしこの牢獄に暫くとどまることを選んだ生徒もいるようで――私も、その一人だ。
 荷物を纏めて一直線に職員室へと足を運ぶ。足取りは重く、弁明もしくは質問をきちんと正しい言葉で言えるかどうかに対する不安がそうさせるのか、もしくは何もやらかしていないにもかかわらず警察の人と話すような特有の緊張感がのしかかっているのだろうか。兎も角私は、教頭先生と話をしなければならないのだろう。
 そうこうしている内に私の額に柔い感触が、ぶつかった。しっかりしている幹のようで、視界は灰。
「ああ、ごめんなさい……大丈夫ですか?」
 聞き覚えのある優しいバリトン。胸元に目をやると鮮やかな赤地にペイズリー柄のネクタイ。そして視界の端には、ウェーブのかかった銀色の髪の毛。ああそうだ、間違いない。私が――今探していた人だ。
「教頭先生、大丈夫……です、ハイ」
「それはよかったです、四条さん。まだ閉門まで時間はありますが……何か私に聞きたいことが?」
 ほら、と先生は微笑んで私に言葉を話すよう無言で促す。ただ――廊下じゃ、話せない。
「あ、あの……その……せん、せ……」
「……落ち着いてください。ほら、私の目を見て……息を深く吸って……吐いて……」
 なだめる様に大きな手が、私の両肩に置かれる。先生に言われた通り顔を上げ、瞳をなんとか凝視する。きちんと見ることができているかは不明だが、ぎらぎら、きらきらと輝く先生の目を見ていると心なしか脳が凪いできて、そうしろと命じられたかのように肺は深く酸素を吸い二酸化炭素を吐き出した。
「……もう、大丈夫でしょう。ほら、私に何か言いたいことがあるのでは、ないですか?」
 どくん、と強く何かが脈打った。ああ、そうだ。私は――先生に――。
「はい……私は……先生に聞きたいことがありまして……でも……ここでは、話せないようなことでして……」
 口の端から水が落ちるように言葉がこぼれる。止めようにも、止まらない。おまけに目の焦点が泳いでしまっている。きっと何か私はまずいことになっているのだろう。
 しかし、それでも目の前の先生はただ黙って頷き、静かに両肩から手を離して私の手をとった。
「ええ、わかりました。丁度突き当りに空き教室があるはずでしたからそこで話を聞きましょう」

 

 

 密室、濃い影、がらんのどう。
 やけに狭く、何かしら叫べば響くくらいにこじんまりとしている部屋。この学校にこんなところがあるとは思いもしなかった。先生はせっせとその辺にあった椅子を引っ張り出して向かい合うように設置する。サイズの合わなそうな体を椅子に腰かける様子を呆然と眺めていたところ、先生は私のほうに手を差し出して「座りなさい」と促してきたのでされるがままに、腰かけた。
「さて、改めて聞きますが……話とは、なんでしょうか」
 変わらぬ笑顔で、教頭先生は問う。
 大きな手は私の口元へと伸びて、徐に彼の瞳は転瞬する。色鮮やかなオッドアイが長いまつげによって伏せられるとき、また私の口から言葉が落ちた。
「あの……掃除中に聞いてしまったのです、噂話を……。あの、スモレンスクでなんかやっていたというのを……」
「ああ―……それですか……」
 先生は目を閉じて、何かしら考え込むようなそぶりをする。窓越しの空は一段と濃い灰色に染まった。
 嘘であれば嘘と言ってほしい。そうだというのならば、いつも通り過ごすだけの日常に戻るだけだ。
「まあ、信じるかどうかは貴女次第ですが……あのような話は、嘘ですとも。ですがスモレンスクにいたということだけは真実です」
 ああ、やっぱり。そんな空想じみたことは、嘘だったんだ。
 ほっと胸をなでおろし、先生にありがとうございます、とだけ短く告げる。
「しかしまぁ驚きましたね。胡散臭いだの言われたりしている身であるが故にこういう噂は慣れているのですが……いやはや、本当にすごいものもあるものです」
「否定は、しないのですか?」
「まあしますがそれは訊かれた時だけです。違うと常日頃主張していれば信じてほしい物も信じてもらえなくなるでしょう?」
 ね、と先生は茶目っ気たっぷりに片目をぱちり、と瞬きした。
 ああ、そうだ。違うと主張すればするほど信じてもらえなくなるということを何故私は――忘れていたのだろう。
「……なんとなく、わかります。あ」
「弁明しなくともよいのです。四条さん。まあそれがなんとなくわかればよろしいのです」
 話は終わりましたがもっと話したいことはありませんか、と聞かれたので首を横に振る。とりあえず噂は偽であることだけは分かった。それだけで十分だ。
「ほら、早く帰りなさい」
「はい、わかりました。あと……教頭先生、ありがとうございます、さようなら」
 椅子から立ち上がり、足早にドアと廊下の境界線に立って深くお辞儀をする。また、お待ちしていますよという言葉を聞いた後私はいつも以上に浮かれたような足で、もう一つの牢へと向かった。

 また、一日が始まれば先生とお話しできるかもしれないという淡いものを胸に抱きながら。

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