ジョバイロ、トリスターナ

 初めて婚約者と呼ばれた時のことを思い出す。厳密にいうと夢の中ではなく、現実において婚約者と呼ばれたときのことではあるが。確か北欧異聞帯を超えた後、彷徨海のノウム・カルデアに着いた後だった気がする。私は彼と場所の把握のために施設内を散策していたときのことだった。一応私は彼のマスターであるため前に出て色々確かめようとしたのだけれども彼が「前に出て確かめるのはサーヴァントの役目だろう?」と言ってきかなかったので私は彼の後ろを歩いていたのである。
 逞しい背中を見ながら歩く。燃えるような短髪が揺らいでいて逞しい声が廊下に響いた。確か北欧の時も同じような調子で、私たちに希望を示していたなぁなんてことを思い出していると突然私の方を振り向いて彼は私に問いかけた。
「なぁメートル、どこか浮かない顔をしているな?」
「顔、ですか。これがいつもの顔です」
「本当に?」
「本当です。……本当、です」
 彼が私の手を取った。あまりにも突然のことだったので思わず振りほどこうとしたけれどサーヴァントの力故か振りほどかれることはなかった。
「蒼、一体何に悩んでいるんだい?」
 悩みなんて、ない。当時の私は自分の心の中を好きな人に、それも初対面同然の彼に踏み込まれるのは少し怖くて、かといって目の前の彼を邪険に扱うこともできなくてただ押し黙るしかなかった。
「……何に、怯えているんだい?」
 優しい瞳が私の方を見た。北欧の方で見た快活さはなく、ただ愛する人に向けるような温かさが今私に向けられているみたい。ずっと欲しかったものが私に今向けられていた。歩みはいつの間にか止まっていて彼は私にきちんと向き合っている。
「怯えてなんか、いないです」
 恐る恐る私は答えた。無論これは虚偽であり、ただこの場をやり過ごすために言ったいつも通りの強がりでもある。それを鵜呑みにしてくれることを祈ったがそれはすぐに打ち砕かれた。
「ならどうして声が震えているんだ? なにかそう言わざるを得ない状況でもあるのかい?」
 あった、あったのだ。ここに来る前には既に彼に惚れていたのだけれどもそのことによって北欧異聞帯で出会った彼にまつわるあれこれで傷が出来て、今目の前にいる彼は、私以外の子にいわゆるフラグを立てることはないかという怖れがあって、言えないのだ。こんなあさましい思いなんて、打ち明けてはいけないのだ。
「特にありません。まごうことなき本心です」
「……へぇ」
 そして歩みを再開する。図書館、管制室、トレーニングルームに入ってはいけない区画の案内。最後に私の小さな部屋にたどり着いた。
「ここが、私の部屋です」
 アーチャーを先に入れて後から私が入る。無機質な部屋に二人きり。私と彼はベッドの上に座って適当に話をしていた。今まであったこと、当たり障りのない自己紹介。自分の中に巣食っているものは隠して嘘をつかずに話をした。そして話題は部屋の話に移っていく。
「中々綺麗じゃないか」
「入りたてですので」
「しっかし、オレを入れてよかったのかい? あまり異性を入れるのは正直関心しないなぁ」
 ぐ、とシーツに触れている男の手の力が強くなった。世間では男女一緒に部屋を共にするのはよくないとはいうけれど正直ほんとにそうかはわからない。それに私のことをそういう恋愛感情とかを持ってみる人はいないだろう。
「大丈夫です。私なんかが入れても何も起きるはずはありませんし」
「――本当に、そう思っているのかい?」
 ぎぎ、とベッドのスプリングがきしんだ。体温が近くなっていく。私の隣に座っていたアーチャーが近くに寄ってきたようだった。
「例えば」
 私の髪の毛がひと房取られた。何をするのだろうとぼんやりと右隣の彼を見たら驚くべきことに私の髪の毛に口づけを落としていた。唇に触れられるような場所なんてないのに、どうして彼はそういうことをしたのだろう。
「こうして好意を伝えられたり」
 彼の声が今までのような明るい声色から一気に低くなる。私の髪の毛は彼の手から零れ落ちて、その彼の手は私の右手を覆っている。いや、好意とか言った?
「手と手が重なり合って別の体温が感じられたりとか……そして、いや今はいいな」
 その右手が持ち上げられて、彼の口元へ持っていかれる。別の人の生暖かい息が手にかかっている。
「ともかく蒼、好きだ。オレは蒼を婚約者にしたい」
 そして――なんてことのないように令呪のある手の甲に口づけが落とされる。その後、息をするかのように私は求婚された。きちんと、面と向かって、愛の言葉を、言われたのであった。
「――冗談でしょ」
「冗談も何も本気だ、大マジさ」
「……まだ、夢の中で会ったっきりだしそれにそんな時間が」
「一目ぼれだ。その白い肌と黒い髪、そしてその氷のようなあり方を思わずとかしたくなるくらいに惚れている」
 一目ぼれ、婚約者、向けられた愛の言葉。全て全て初めてで、裏がない上に本気であるということは頭でわかっているはずなのに裏があると思い込んでしまう。こんな言葉、向けられていいはずがないというのに。それに私の心は氷じゃないんだ。熱も何もない無機物のようなものなんだ。それでも何故か、もっと欲しいと思ってしまう私がいる。
「貴方に、私の何がわかるというのですか」
「これからメートルのことを理解するまでさ。それにオマエさん、助けを求めていただろう?」
「助けなんて、そんな――」
 理解なんてできるはずがない。あの時の私はそう答えた。そもそも相互理解なんてできるはずもなく出来ていたと思っていたら実はそうではなかったという落ちは容易に想像がつく。それでも、何故かわかってほしいと思ってしまう私がいた。あの時、北欧異聞帯の時に彼女にしたときのように助けてほしいと願ってしまう私がいた。同じものを求める私が生まれてしまったのだった。
「言わんでもいいさ、さて、返事は?」
「……保留、でどうでしょうか? 互いのために考える時間が必要だと思いますし」
 懸命に私の脳を落ち着かせて返事を絞り出す。うんともすんとも言えるはずがないし、ここで断っては全部途切れてしまいそうで怖かったから先延ばしを選んだ。彼は少しだけしょんぼりとした顔にはなったがすぐに元通りの笑顔を見せた。
「そうだな、少しいきなりすぎてすまんかった。でも、オレは本気だ」
 予想外。彼が少しだけ引き下がった。私の右手は解放されて彼は立ち上がる。彼の体は天井すれすれで、下から私が見上げると彼の逞しい体がよくわかる。
「なんというか、放っておけないんだよ、オマエさんは。助けてと願ってもそれを否定する心、助けを呼ぶことが出来ないあり方、とても、ああ、とても……辛いだろう?」
「辛く、ありません」
 つかつかと彼が部屋を後にしようとする。ドアの前に到達した時、私の方に向きなおって酷く優しい言葉を大きな口から投げかけた。別に、辛くなんかないのにどうして私の心臓は痛むのだろう。
「改めて言うが、蒼、このオレの婚約者になってくれ。 一目見た時からその夜のような瞳が離れない、そして――このオレの心はすでに燃えているんだ。恋の焔、愛の焔がめらめらとな」
「……」
 言葉に、できない。欲しかった言葉が捧げられているというのにどう返せばいいのかわからない。そもそも人の好意をどう受けとめればいいのかわからない。だから、黙るしかなかった。
「ああ、言葉にできないくらいうれしいか。まぁでも保留だからなぁ……まぁいいさ。オマエさんのその愛らしい口から鈴のような声でOuiといつか言わせて見せる」
「……なぜそんなに自信満々で言えるのですか?」
「オレが、ナポレオンだからさ」
 不可能なぞない、と男は言いたいのだろう。そうであれば、私の慕情を――いややめておこう。一時の情に身を任せて破滅なんてごめんだ。それに、この思いに張り付いてる泥を明かすわけにはいかなかった。だから私はひっそりと思い続けることにしたのだった。自分の中で完結させることにしたのだった。
 そうすれば、彼に迷惑をかけずに済むとおもった。ただ、それだけの話。
 ドアが開き、彼は向こう側へ歩みだす。私は、現実にかけられた言葉に対して馬鹿みたいに跳ね上がった後で彼がまいて、ひどく育ってしまった恋の痛みに悶えた。

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