紫暁明星

 うつらうつらと視界が開いていく。結局眠りに落ちてもそれは浅く、疲れをとるには不十分なものだった。ぼんやりと彼が私のことを見ているらしい。
「なぁメートル」
 声が、聞こえてきている。もっとその声が欲しくなる。でもこれ以上求めてはいけないといさめる私がいる。
「起きているかい? ……起こしちまったらすまん」
 なんかわからないけど彼が謝っている。別に私が勝手に目覚めただけだから謝らなくていいのに。大きな手が触れようとしているけどその寸前のところで止まって、引っ込められた。
「……いや、そろそろ朝だから起こすべきか?」
 ごそごそと何か物音がしている。それと同時に私の意識が明瞭になっていく。夜明け前特有の空気がひんやりと私のほほを撫でている。視界がはっきりていくにつれ、私の顔を覗き込んでいるアーチャーの顔がはっきりと見えてきた。
「……アーチャー?」
「あぁ、起きたか蒼。気分はどうだい?」
「ちょっとだけマシになった程度です」
 差し出されたナポレオンの手を取ってゆっくりと起き上がる。睡眠時間が足りていなかったからか、空に日は登っていないらしい。意外と開けない夜は長いんだなとぼんやり思いつつ簡素に身だしなみを整えた。眼鏡をつけて視界を無理やり鮮明にするといつも通りにかっと歯を見せた笑みを浮かべている彼が傍らにいた。
「そうか、体の調子が悪くなさそうでよかったぜ」
 ほら、と水筒を差し出されたのでそれを両手で受け取り中の水を飲んだ。冷たいものが入ってきて、内部の靄が晴れていく。喉を潤して立ち上がろうとしたが「まだ暗いから」という理由でアーチャーに止められた。
「一番暗いのは夜明け前とよく言うだろう? 日が昇ったら行動始めるというのが無難だと思うが」
「すみません、ついいつもの癖で……」
「あー……結構メートルは朝早く動いてるもんなぁ。あれ、いつもは何をやってるんだい?」
「素材残量の点検とか、触媒とかのチェックですね。あと暇さえあれば基礎鍛錬的なものでしょうか」
「偉いな」
「それでもまだまだ私は、色々なものに遠く及びませんよ。素がだめなので」
 いつものように誉め言葉を謙遜する。あ、といつもの悪い癖に気づいたときは時すでに遅く、真っ暗な夜明け前の闇の中でも彼の沈痛な顔持ちになることが分かった。
「なぁ、どうしてオマエさんは自分自身を卑下するのかい」
「え、これが通常だと思っているのですが……違うのですか?」
「違うも何も……蒼はもっと自信を持っていいと思うのだが」
「ありませんよ、自信とかそのたぐいのものは」
「じゃあオレがもっと褒めるまでだ。オマエさんが自信にあふれる笑顔を見せるときまで、な」
「……それをするだけの精神力があるか後で自分に相談してみますね」
 本当に、みんながよくしているような笑顔が出来ればよかったのに。そんな自信なんてあるわけもなく、ましてや自分自身が誇れるようなものはなにもない。あるのは彼を思うことで生まれてしまった罪のみ。罪という悪いものを認識している私はそれを受け入れることも出来ずに、ましてやそれを抱えているのであれば甘くて安心できるようなものを欲求することに一種の罪悪感を覚えていた。それでも彼の思いと言葉と温もりが欲しい。なんて私は、強欲なのだろう。
「隠さんでもいいさ。その力がないことはわかっている」
「……ですよね。昨日のこと振り返ったらばれますよねそりゃ」
「それ以外にも普段のオマエさんの発言とか行動とか見たらわかるさ。まぁゆっくりでいい。オマエさんはオマエさんのペースでいけばいいんだ」
「叱らないんですね」
「悪いことをしたら叱る。痛いお仕置きもするかもしれんが、きちんと連れ戻すさ」
「ありがとうございます。その、お仕置きは出来れば私を殺してもらえると助かります」
「だめだ、きちんと生きて背負うもんだこういうのは」
 ほらほら、と彼が私の手を取る。手の甲にある首吊りのような令呪の文様は持ち上げられて、優しく口づけを落とされた。まるでそれは従者のよう。
「……まぁ、いいさ。ところで話を戻すがオマエさんはどうして、こんなにも自分のことを嫌っているんだい?」
「単純に自分が悪い子だからですよ。それに自己嫌悪しているだけです」
「悪い子……いやオマエさんの抱えているものを鑑みてオマエさん自身がそう判断したということか」
「ええ。貴方の婚約者であるということに思い上がり、その地位に甘えて愛を貪ろうとしたり怠けたり欲を抱いたり、そんな自分に憤ったり……なにより未だに嫉妬しているのですから」
「そりゃ当たり前の感情だから気負わなくていいと思うのだが……オマエさんはそんな自分自身を許せないんだな」
 気負うな、この感情が当たり前。違う。こんなの抱いているから私は、貴方によからぬことをするのではないかとか不安になっているというのに、愛とか恋は独占欲にならないと倫理で学んだというはずなのに――。独占欲じみていて、なおかつ十分満たされているはずなのにもっと欲しがる強欲な私は悪い子であるはずなのに。どうして彼は肩を優しくよせて語りかけるように優しく説いたり、私の話に耳を貸しているの。
「ええ、だから――」
「じゃあ、なぜそこまで善悪にこだわるんだい?」
「その、異聞帯の貴方が悪鬼外道は叩き潰すとか言ってましたしなにより悪は気持ちよくない……ですから」
「まぁ事実だが少しこう、何を言うにしても善悪がよく出てくると思ってふと疑問に思ったまでさ」
 ほら、話してごらんと耳元でささやかれる。まるでそれは悪魔のささやきのようで、つい従いそうになってしまう。しかしそんなことを言ってしまえば――私は終わるかもしれないと思っているから。だから私は、口をつぐむことにはしたけど何か言わないと彼に迷惑がかかる。だから出来る範囲でぼかすことにした。
「ただ、今までいた環境がそういうことに敏感だった。それだけの話です」
「なるほどね……。それで、その周りの善悪ってのはどうだったんだい?」
「人に迷惑をかけないのが善、かけるのが悪という感じでした。当たり前ですが」
「それがオマエさんの場合行き過ぎてんだよ、きっと」
 もしかしたら、そうかもしれない。自分の欲を周囲の和を乱さない程度に出したら総叩き。しかも私はどういうわけか人と趣味が違っていたらしいのでクラスで好かれているような欲張りな子より少ない欲を出したとしても次の場面では地獄よりむごいことになる。それは家でも同様でただ耐えるしかなかった。その名残が今も残っているだけ。ただ私は人より耐えることを強いられていた。それだけの話。
「……そうかもしれません。極端な話、ただ何も求めずにいたら何もなく過ごせるので」
「何かある前提かよ……」
 はぁ、と彼は息を吐く。そしてぎゅうと私の肩を寄せている手の力が強くなった。
「答えたくないのなら答えなくていいが、そんなやつらがオマエさんを……いじめていたのかい?」
「……ええ、実に不条理でしょう。でも事実なのです」
「助けを求めるということは?」
「出来るわけないじゃないですか。求めても無駄でしたし」
「ああ、前に裏切られたとか言ってたな……」
 東の空が明るくなっていく。藍色の空がだんだん紫の境界となって滲んでいく。既に朝は近いというのにまだ明けてほしくないとさえ思ってしまう。
「まぁともかく、言いたいことも言えないのは辛いだろう。蒼の場合もっと欲を出しても構わんと思うぜ、オレは」
「……たとえそれが際限ないものになったとしても?」
「まぁ、不安なら少しずつ出していけばいい。ここはダメだろと思ったらオレが指摘する」
「ほんとに?」
 Ouiと力強い返事が返ってくる。ほんの少しだけ明るい空に彼の優しい顔が照らされている。自信満々に言うその口を、分の悪い賭けに挑むときのように何故か信頼したくなってしまった。たまに別のことをしてみたい、通常通りから外れることを戯れでするかのように。
「……では、その、くだらない欲ですが、わたし、貴方に……愛されてたいのです」
 瞬間、静かさが場を支配する。肩を寄せている手の力は抜けて、彼はへにゃりとした顔でこういった。
「オマエさんがどんなことになろうとも、ずっと愛するぜ。マドモアゼル」
「こんなに罪深い私でも、欲していいのですか?」
「ああ、欲していいさ」
 一番冷たいときを、一番暖かい人と過ごしている。これだけでも十分すぎるくらい幸せだというのにもっと先を欲してしまう。怖い。こんなにも愛とかそういうのが優しいものだったら――求めなければよかったとさえ思ってしまうのに、それでも欲しくなってしまう。
「……では、おことばにあまえて」
 私は子供のようにぎゅ、と彼の逞しい左腕にしがみついてみた。自分から彼に触れるなんてことはめったになく、きっと迷惑だろうなということで躊躇っていたが今は二人きり、そして欲していいという彼の言葉が引き金になって気づいたらこうしていた。とても逞しい腕が布越しに伝わってきている。普段大砲を握っている故かかなり筋と筋肉が強調されていて、そんな腕が夜にはこんな私を抱きしめているなんて。
「蒼にしては、大胆だな」
「……一度だけでもいいから、こうしてみたかったんです」
「そっか。それより完成したな、メートル」
 ナポレオンが指示した先は空は茜色と藍のグラデーション。その境界は紫。東の空には明けの明星が輝いている。その光景はあまりにも綺麗で、額縁に入れて飾りたくなるくらいだった。
「……消えない虹ですか?」
「そうだ、色々あったが……こうしてオレと色を巡る旅をすることでオマエさんの中に消えない虹を架けたんだ」
「覚えていてくれたんですね。それに……本当にやってくれたなんて」
「オレに不可能なんてものはないらしいからな」
 ふ、と彼はちょっとだけ格好つける。まるで好きな子に向かってするかのように。そんな彼とみる朝焼けは、まるで或る映画のワンシーンのようだった。
「なぁメートルは知っているかい? ノアの箱舟の話を」
「ええ、一度地上に洪水をもたらした神と善人のノアの話ですよね? 確か結末は……あ」
「そうだ。もうこんなことしないと神は誓いの証として空に虹を架けたそうだ」
 腕を振りほどき、改めて彼は私の右手をとる。何か神妙な儀式が始まるらしい。
「消えない虹にかけて誓おう。蒼を幸せにして、この霊基が燃え尽きるまでオマエさんの力になると」
 そしてその言葉を封じるかのようにして私の令呪にキスをした。太陽は顔を出し、私たちに朝を告げる。鬱陶しいはずの太陽が何故か暖かく感じた。そして私は、ナポレオンの言葉に首を縦に振ったのであった。
「……さ、片付けして帰ろうや」
「はい……!」
 晴れやかな気持ちで私たちは立ち上がる。そして機材をてきぱきと片づけてシミュレーターを後にした。

◆◆◆

 シミュレーターから帰還した後どっとつかれが溢れてきたのかベッドに倒れ込む。彼との旅を思いだしては変な笑いがこみ上げてきた。消えない虹は私の胸に、そして温もりは確かにあった。 「ふっへへ……ヘ……」
 今度はどこへ行こうか、いや落ち着いたら夜がきれいなところに行こうか、それとも夜の虹を見に行こうか。色々と案は浮かぶけど早くもそんなことを望んでしまうのは早計ではなかろうか。そもそも今は妖精國の一件を終えたばかり。まだ備えるべきことはたくさんあるはずだ。やるべきことをやらずにそんなことをするのは――悪いことだとあの國で学んだはずだ。
「そう、私のやることは……」
 ふ、と思考が浮上する。私のしてないことは――
「罪が、まだ残ってる」
 自分の罪、いけないこと、それらと向き合いどう付き合うか考えること。それが不十分なまま彼と向き合うことは許されない。彼に危害を加えるかもしれないから。
「そうだ、私はまだ――」
 ふらふらと着衣のままシャワールームへと歩き出す。そして心が虚ろなままシャワーの蛇口を回し、冷たい人工的な雨を浴びた。

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