終章:後

 暫くした後で看護師はスティーブンさんを連れて戻ってきた。一礼をした上で看護師は部屋から退出し残されたのは私とスティーブンさん二人だけ。静かに時計の針の音が一定のリズムで刻まれる中、先に切り出したのは彼の方だった。
「無事でなによりだ。今宵」
「……すてぃーぶん、さん、ごめんなさい。端末見られたので多分漏れてしまいました。契約守れなくて申し訳ありません。もっと早く……言うべきでした。色々と」
「ああ、たしかにもっと早く伝えるべきだっただろう。だが――いや、多分あの倉庫街でオクタヴィアに攫われたところで勘ぐられたのかもしれない。それに君のされた仕打ちを鑑みれば言いづらくもなるよな」
 彼は微笑みを浮かべながら私の手を撫でた。あの日のようなぬくもりを感じながらも丁寧に、丁寧に彼は言葉を口にする。
「クラウスから経過は聞いている。……無事で、なによりだ」
「はい……」
「あと、僕は君に謝らなければならないことがある。日記を、勝手に読んで警察に提出したことだ」
「……証拠品として、ですか」
「ああ、だがそれで八角美和は御用になったらしい。ほら」
 そう言って彼はHLの英字新聞を差し出してきた。三面記事に違法オークションの主宰者として、そして暴行の罪で彼女が警察に捕まったと書かれていた。彼女の上にいるはずの存在は行方不明であることも同時に明記されている。
「あ、あの……記憶王は……」
「もう二度と逢うことはないだろうね、この文章からすると」
 ずっと私の上に立っていた人たちと逢うことはない事実。実感は未だわかないどころか染み付いたものがこれから拭い去れるのかという一抹の不安が脳をよぎった。あのとき一緒に帰るという彼の指示に従ったはいいがその後はどうなるかすらわからない。
「目覚めた後、警察が君に事情聴取をしたかい?」
「は、はい。ロウさんから色々と……でも、落ち着いたらでいいって……彼には非常に、申し訳ないことを……言わなければ、ならなかったのに」
「――そうか。恐らくあの日記と照らし合わせて色々捜査するのだろう」
 ふう、と彼は胸に溜まっていたような空気を吐き出す。目を固く瞑りながら唸り、また徐ろに目を開く。
「ごめんよ、それでも結果的に君の思いを踏みにじることをした。あのとき言った気がするが読んだよ、最後のページ」
「いえ……証拠品として提出されたのです、よね。大丈夫ですよ、気にしてませんから」
 撫でられている手が、ぎゅっと強く握られる。彼の目は真剣そのもので冷たいくらいに穏やかだった。近くの聖堂ではこちらに響くくらいの音量で鐘が鳴っている。
「……そっか。それで、最後のページに書いたことを覚えているかい」
「『こう書いたら怒るかもしれませんが道具としての役割を全うできなくて、ごめんなさい』」
「確かに読んだときは怒ったさ。好きな人がそう定義せざるを得ない環境にね。でも僕が言っているのはそれよりちょっと前の文章だ」
「……『今までありがとうございました。そんなに役立たてなくてごめんなさい』」
「君の日記は役に立った。あとそれより前だ」
 その前に書いたこと……は、この場所で、言え、いえない。
「君のことだから覚えているはずだが……読んだときは嬉しかったさ。それこそ心臓が跳ねる程にね」
 聞かせてくれ、と言わんばかりに彼のもう1つの手が私の唇に優しく触れる。今か今かと彼の目は私をじっと見ていた。
「……大好きです。愛して、ます」
 声は酷く、震えている。指は離れ、安堵した途端その言葉を封じ込めるように彼の顔が近づいてきた。気づいたときには既に遅く――彼の薄い唇の感触が、私のそれに重なった。触れるだけのそれ。思わず目を閉じて、よくわからないまま触れるだけのそれを感じた。
 数秒が、数時間の長さと錯覚する中、彼の唇は私から離れていく。目を開けるとそこには優しいいつもの彼がそこにいた。
「そう、そうだ。僕もずっと、同じ気持ちだ。コニー・アイランドで見せたあの笑顔が忘れられないくらい大好きだ。大好きだからこそ――君のことをもっと知りたい。知りたくなったんだ」
「なった……?」
「そう、なった。――というのも君には2つの道がある。それ次第では永遠のお別れになるからだ」
 ごほん、と咳払いをして彼は私から手を離す。永遠のお別れ、過去形。ここが分水嶺。さっきの口づけから空気が変わり背筋が思わず伸びる。ゆっくりと彼は、口を開いた。
「君にはライブラのことが刻まれた。そのまま君を解放すると今度はライブラの情報をめがけて君を付け狙う輩が出てくるだろう。それは僕たちとしても情報保護の観点からして非常に困る。そこで君には選んでもらいたい。――ライブラに入って生きるか、自由になって死ぬかを」
 優しい人たちとともに生きるか、念願の自由を得て死ぬか。
 どちらも魅力的で――どちらかしか、選べない。俯いて、ぐるぐると考えを巡らせてみる。きっとあの自殺しようとしたのを見たからこそ彼はその選択肢を提示してきたのだろう。――本当に、私のことが好きであるとしても、否、人の好意を疑ってしまうのは――よく、ない。
「ただ、僕としての個人的な意見だが……生きることをおすすめしたい」
「どうして、ですか」
「君、まだいい夢を見てないだろう。夢は一種の記憶の整理だ。悪夢しかないというのならその中に1つ、いい夢の元を入れてしまえばいい」
 個人的な意見。再び私は顔をあげた。逆転の発想。今であればそう思えるのかもしれないがずっとそれが出てこなかったのは私自身、非常に色々な意味で行き詰まっていたのだろう。
「……夢のある話、ですね」
「不可能と言わないんだな」
「不可能だらけだからこそ、言うことができなかったんです」
「そっか。だが今宵、君にはそれが可能なんだよ。ずっと忘れないということは消えない傷跡を抱えてしまうということにもなるが――いい夢の元となる記憶を蒔けばいつか必ずそういう夢を見ることができるんだ、君は」
「いつか、必ず」
 眠れるほどの、安らかな夢。
 記憶の整理が夢であるならば――きっとそれは、そうすることで、それが見られるのだろう。
 もし、そうであるのなら―――
「―――そうであるのならば、私は、優しい貴方の夢を見ることができますか?」
「ああ、見られるとも。俺が、手伝おう」
 これ以上ないほどに彼は目を細めた。そして静かに彼は私の手を持ち上げて騎士がするかのような口づけを落とした。
「……わたし、私は……いきたい、です」
「……決まりだな。そうと決まれば僕からクラウスに話を通すよ」
「ありがとうございます……! スティーブン、さん!」
 白い部屋にあるはずのない光が優しく差し込む。
 互いの目線が交差して、再び触れるだけの口づけを交わした。
「これから、これからも宜しくお願いします、スティーブンさん」
「こちらこそ、今宵」

 

 

Zavwienie Pamyat’ 

Konets / Fin

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