「サリュ、マドモアゼル。今日の調子はどうだい?」
変わらぬ調子で、アーチャー――もといナポレオンが声をかける。おなかに響くような声色でしゃべってとん、と軽い調子で後ろから背中を叩いた。
「あ、ナポレオン、さん。まぁ通常通りというところですかね」
「そうかそうか、いつも通りか、蒼は」
そう彼が呟くや否や私の髪の毛をひと房とって口づけを落とす。すでに何度もやられてはいるけどいまだに慣れる兆しはなく、顔が熱くなってしまった。
「ああの……か、かみのけ……」
「ん? これは挨拶さ。麗しい婚約者への、な」
まるで息をするかのように彼は甘ったるい言葉を口にする。彼はきっと自分の気持ちに素直なのだろう。そういうことができる彼が眩しくて、少しだけ羨ましい。きっと私にはできないから。でも、その挨拶を無下にすることはできなくて、頑張って自分の思ったことを少しだけ口にしてみた。
「あ、いつもありがとうございます。あー、ちゃー」
「ナポレオンだ。まぁクラス名で呼ばれるのも悪くないな」
いつもの癖で彼をクラス名で呼んでしまった。いつもなら正そうとするが今回は何やらまんざらでもない様子で彼は彼自身の鼻の下を指で拭った。
「だって、その……あなたは、私のアーチャー、ですから」
「それもそうだな。しかしメートル、今日はやけに素直じゃないか」
「っ、常に素直に慣れなくて本当、申し訳ありません……」
「いや、責めてないさ。むしろそういうオマエさんも愛らしく見えるし、オレはあらゆるオマエさんが大好きだ」
そういうとナポレオンさんは私の正面に出て、立ち止まる。何をするのだろうかとぼんやり彼を見ていたら、私の視界が急に暗くなった。あたたかくて、ここちよい。私の体はぎゅーっとされていて、手が自由に動かない。
「メートル」
低い声がよく響く。その声を聴いて私は初めて今、自分が置かれている状況を認識した。私は今、恋人に抱きしめられている。
「好きだ、今こうして抱きしめている瞬間に身じろいでいるオマエさんも、物憂げなオマエさんも、笑顔で何かしているオマエさんも全部愛してる」
「……本当に、全部?」
「Oui, 婚約者のあるがままを全部愛するのは当然だろう?」
婚約者、愛してる、あるがまま。その言葉を聞いた途端かさぶたが剥がれ落ちるような痛みを感じた。一生懸命封印していたものがどろりと溢れ出すような痛み。きっと私のスカートの下からコールタールのような泥が溢れ出しているだろう。そんな醜いものを彼が見ないように、そして気づいてほしいという矛盾したものを抱えながら私はある言葉を口にした。
「それが、例え醜いものでもですか?」
その言葉を出した途端。慌てて引っ込めようとしたが無駄だった。一度出た言葉は取り消すことはできない。ましてや疑いから生まれた言葉ならなおさらだ。こんな愚かな言葉を聞いていないことを祈るようにして私は彼の方を見る。青くてきらきらとした目が私を見ていた。
「ああ、光もあれば影もある。それにオレはオマエさんの全てを愛している。それだけのことだ」
私を安心させるかのように優しいキスを落とす。その言葉が本物であるか示すように。
「ありがとう、ございます。アーチャー」
そして腕は離される。ほんの少しだけ名残惜しいけど私には私の仕事がある。また早く彼と会えるように急いで私は持ち場へ歩んでいった。背中越しに彼の励ましの言葉を聞きながら。
◆◆◆
「―――どうして」
作業の合間の休憩にて。私は朝のことを思い出す。時折やってくる再上演―――北欧異聞帯の話だ。異聞帯に呼ばれたナポレオンはそこにいたクリプターの女に一目ぼれして、求婚して、思いは報われなかったもののその女のために、世界のために命を燃やした。そこに行く前の夢で彼を見て、一目ぼれした私はその光景を見て傷を負った。今私のことをフィアンセと呼んでいる彼はその異聞帯の彼とはまた別であるが、今の彼はその北欧のことが少しだけ刻まれているらしい。
「どうして」
そこでの記憶を消してはならない、そこであった記憶をなかったことにしてはならない。それは私たちカルデアが消した北欧異聞帯へのはなむけであり、彼に対する思いやりでもある。あの出来事は彼という人物がよくわかったことでありそれを否定するのは彼そのものへの侮辱につながるからだ。それでも、それでもと反発する感情が私の泥から生まれている。
「どうして」
良心と本能。ぐるぐると陰陽図が渦巻いて灰色になっていく。醜い灰色は白に塗りつぶさねばならない。悪い子は、罰せられなければならない。それでもいい子ではいられない。なんという矛盾精神。私はそれを一度強引にシャットダウンさせて、時計を確かめた。もうすぐ休憩時間は終わる。すぐに作業の準備を進めて余計なことを脳の外へと放り出した。
◆◆◆
「全部、本当なんだがなぁ」
ナポレオンは霊体化した状態で女の様子を見守っていた。ぐるぐると思い悩む光景を笑うこともなく、かといって声をかけることもなくじっと見つめている。
「わかっていてもずっと抱えちまってるんだよなぁ。だから、そういう言葉が出るのも無理はないさ」
北欧の記憶。彼は彼女がずっと抱えていることを知っている。故にずっと寄り添って支えているが彼女の傷は深く癒えることはなかった。それでも彼は彼女の手を取り、愛をささやき続けている。彼女が、自分の傷を打ち明けたあの夜から。
「悪い子になったら手を引っ張って戻してやる、迷っているのなら進めるように背中を押してやる。だから」
もうちょっと頼ってもいいんだぜ。その言葉をそっと呟いた後、彼はその場から立ち去った。ほんの少しだけの爽やかな残り香を残して。
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