ドアの向こう側は、完全なる別世界への扉だった。
気後れするくらいに光輝いていて、それでいて誰かが誰かと話していている。ただここが敵のホームグラウンドである以上物騒な話をしていることは容易に想像がついた。
人工のきらめきから参加者たちに目を向ける。周りはただ賑わいだけが蔓延している状態だ。そして相澤さん――イレイザーヘッドさんの様子を横目で見る。綺麗な衣をまといながらその細い眉を潜ませて小さく舌打ちをしていた。
「なあ、聞こえるか」
「何が……ですか……?」
「まあ少しだけ耳を澄ませてみろ」
イレイザーさんの言われた通り鼓膜を研ぎ澄まして周りの賑わいを脳内で解体。老若男女の声と言葉を一言一句、あらかじめクラッチバッグの中に入れていたスマホのボイスレコーダーで記録しながら脳に刻みつける。
「ああ、やはり貴方もそう思いますか」
「ええ、人は超常以前からなーんにも変わっていません」
「コミックのヒーローが闇落ちする展開があるならば、ヒーローが職業となっているこの今も闇落ちリスクは充分にあるわけですよ」
「それで、このパーティの主さんはあれか。その闇落ちプロデューサーというわけかね」
「ああ。しっかしあのサイレントシネマはあっさり堕ちたな。迂闊にものを喋れなくなったがゆえに堕ちて言葉で人を殺めた上に、よくわからんヒーローによって捕まったのだから」
……喉によどみがせり上がる。
よくわからんヒーローの部分は正直どうでもいい。ただ、それとは別に言葉には言い表せないほどの憤りがわき上がってくる。やけに照明が強くてめまいが少しだけした。
「せめて派手に暴れてほしかったねぇ。それこそオールマイトが来るレベルで」
「うわぁ不謹慎」
「でも彼は堕ちて救われたと思うぞ。ヒーローの苦しみを解き放ったんだから。そう思うだろう? そこのカップルも」
会話していたうちの一人が視線を私たちに向ける。イレイザーさんは肩をすくめ、私は曖昧にうつむくことしかできなかった。
「まあいい。そのうちそのヒーローの苦しみを解放する救世主が現れるからねぇ。……ほら、くるよ」
男がそう言ったあと、それを合図にしたかのように橙の証明が消える。
いつの間にか私とイレイザーさん以外はある方向に体を向けていて私たちもそれにとりあえず倣うことにした。
静寂、しばし漣。
そしてその後――録音されたと思しき管弦楽器の軽いファンファーレが広いホールに鳴り響いた。
拍手後スポットライト。白の証明が1人の白スーツ姿の男性を浮かび上がらせる。その男性の動きとともに白で塗りつぶされた丸は動いた。
「あの人がペーパームーンその人なのでしょうか」
「……さあどうだか」
手はそのままに、白スーツの男が壇上に上がるさまを注視する。オールバックにした黒髪に彫りの深い顔、大きな口にアーモンドアイ。この世の勝者がいるならば、きっとこのような見た目だろう。
「この度はお集りいただき誠にありがとうございます。週刊ニーナ編集長、閃光神吉と申します。乾杯の前にわが社期待の記者よりご挨拶があります。どうぞ」
編集長と名乗る男に呼び出され、女が男の背後からおもむろに現れた。
緑のサテンで出来た重力に逆らわないストレートラインのドレス、濃い緑と赤と銀の糸でできている刺繍は8つの花びらでできている花をかたどっている。銀の髪は腰まで伸びていて毒々しいほどまでに煌めいていた。
まるで、蟒蛇―――いや、絡新婦。遠くからでも瞳のぎらつきは視認可能で――――いや、待て。クモ……違う。違う筈だ。背筋を通る冷たさは、ただの強い思い込みだ。
「初めまして、佐倉蘭と申します」
油の海に浮かぶ清らかな水を思わせる声。
サイレントキネマの記事を書いた人と同じ名前。理由なき重圧が両肩に伸し掛かる。クモ、名字。同じだからといって偶然だろうし偶然であるはずが、ない。
いや、この声は確かに一度だけではなく二度も聞いている。
「おい、どうした」
イレイザーさんが手を強く握る。無理矢理意識を今あるべき場所へと矯正させて柔く握り返した。
「乾杯前ということで手短にすませておきたいところですが……申し訳ありません。少々長々とお話させていただきます」
一つ、彼女が息を吸って俯く。
聴衆が注目する中、佐倉と名乗った女は顔を上げて仮面のような笑みを浮かべてマイク越しに話し始めた。
「まずは一つ。皆様がきちんと招待状に書かれていることを守ってくださったおかげで私はきちんとここにいることができます。いかんせん、私にとってカフェインは天敵でございまして……その場にあるだけで気持ち悪くなってしまうのです」
くすくすと笑みが周りから溢れる。
何を言い出すか分からない。握った手はいつの間にか離れている。ただ無言であらゆる事態に対応するためいつでもいけるよう心構えだけはし始めた。
「ですかその体質を恨んだことはありません。蜘蛛糸のようにいろいろなことが手に取るように分かる体質のデバフだと思えばどうということはありません。そのおかげで役者の素顔を見せることができるからです。ヒーローなぞ、マスクの下は只の人。この社会ではそう喚起する必要があります。勝手に堕ちたのであればただ、それだけのヒーローだったのでしょうね!」
どっと私たちを除く人たちが大笑いする。老若男女、飾り立てた人たちが手をたたいた。
「……ったく」
横目には、苦虫を噛み潰したイレイザーヘッド。既に彼の手は礼服の上着の内側に突っ込んでいた。
異様さは拍車をかけ、変わっていないはずの照明が明るさを増している。腕はいつでもいけるはず。あとは身体が動くかどうか。
壇上の女に変わった様子はない。ただ、偶然としては出来過ぎている事象が重なっているからかいつ何があってもおかしくはないかもしれない。
蜘蛛糸、カフェイン、個性と思しき情報と佐倉蘭は、寺田蘭というあり得ない考察。ただの連想ゲームであってほしい。
ちらりと女は時計を見る。ああ、と何か気づいた素振りをして瞬きをした。
途端、空気が張り詰める。ありとあらゆる場所に糸が張っているかのように。女は「ところで」とほんの少し低いトーンで切り出した。
「とまあ、約2名ほど殺気がすごい人たちがいるのでここで挨拶はやめておきたいですが……その約2名、招かざる客ですね。いったいどうしてこの場にいるのか――サイレントシネマを確保したヒーローことイレイザーヘッド、並びにベラスニェーカ。いいえ、相澤消太に雪洞牡丹!」
脳を貫くほどの高い声を上げるとともに、光が私たちに集まる。思考は戦えと信号を送る。ただ――――体が、動いてくれない。
「狙いはわかってますから裏取りのためにさっさとその唇で白状しやがれくださいな。それともごていねいに扇子で口元を隠してやましいこと見せたくないものでもあるんですかねぇヒーロー様。まぁ、そのヒーロー様も所詮フィクション―――紙の月の存在でございますが。ああいや私も身分を明かしましょう。佐倉蘭はペンネーム、本名は寺田蘭、と申します」
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