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「――……今宵、今宵」
 遠くから声が聞こえてくる。くらく、つめたいゆめのなかで耳をふさいでいようともそのこえはひくくひびいている。
 瞼を開いて確認したくてもまだ地獄が残っているのかもしれないのでやめておくことにした。
「今宵、今宵」
 嘲笑はなく、侮蔑もない声で私の名前をよんでいる。ほおっておいてくれないか。上げて落とすために呼んでいるのなら最初から呼ばないで。
「おきろ、起きてくれ今宵」
 ゆさゆさとゆれるかんじがする。その声はとても聴きなれたようなかんじがした。
 じいっと耳を澄ませてみる。いつの間にか彼以外の声は聞こえなくなっていてあざける言葉もない。今聞こえているのは私を呼ぶ声のみ。低く、まろやかで、声だけだと本当に、ここの所最近よく聞くようなものだった。確信こそあれども本当に『彼』の声かはわからない。無駄にエコーなりなにかがかかっているからだろう。
「貴方は、誰ですか――?」
 蜘蛛の糸を掴む思いで聞いてみる。途端、声はだんまり口をとざしてなにも言葉にしなかった。
「あ、貴方は――あなた、は――みかた、ですか――?」
 瞼をおそるおそる開いてみる。視界は白に塗りつぶされている。そして意識は急速に浮上していった。
 
 ◆

「なあ、本当に大丈夫か今宵」
 気づいた時には見覚えのある天井と今現在進行形で私がお世話になっている男の顔が視界の中に入っていた。部屋は薄暗く、右手を動かすと背もたれにぶつかった。男の眉間にはしわが寄っていて、癖のある黒髪が影を作っている。
「スティーブンさん、ごめんなさい。寝ていいと云われていないのに寝落ちしてしまって。それと……ありがとう、ございます。ソファに運んでくださって」
「いいんだ。寝ないときもあるというのはまあ僕も人のこといえないからね。それよりも――」
 スティーブンさんは少し大げさに咳ばらいをして、息を吸う。少々目線が泳いだ後、口を開いた。
「酷く魘されていたようだが君は本当に大丈夫かい?」
「ああ、私よく悪夢を見ますので慣れてます。大丈夫です」
 咄嗟に聞かれたことに対し反射的に答える。これで大丈夫だろうと思ったがどうも今日の彼はそうもいかないようで、引き下がる様子はない。何度も何度も魘された声を聞いているのだから流石の彼も業を煮やしたのだろう。両手を勢いよく私を押し倒すような感じにしてソファの座面に向かって突き出した。
「その割には酷い魘され方だったが僕からしてみればとてもみていられない」
「……ごく普通の魘され方だと思いますが」
「あれが普通かい? ごめんなさいといいながら左腕を掻きむしる魘され方が?」
「私にとっての、普通なんです」
「まぁ……そう云われればそうなのだがそれでもまぁ、気になるんだ」
 男は腕を離し、私にいったん背を向ける。そしてそのまま顔すら見せずに彼は続けた。
「きみは……いつもどんな悪い夢を見ているんだい?」
 氷を思わせるような声で彼は問う。
 どういう顔をしているかはこちら側からだとわからない。
 ただ、さっきの彼の様子からして私の夢の内容はかなり重要なのだろう。私が今までにあったこと含め私にまつわる「情報」は喉から手が出るほどほしいのかもしれない。しかしそうとなると……どうして彼は私に固執しているのだろうか。自分のことを見ている、仕事とはいえ私のことを助けてくれた、そして私のことを馬鹿にしないでいてくれている。それだけでも彼を信じたくなるが本当にそれだけならあまりにも自分自身ちょろいのではないかと自己嫌悪してしまう。それに――本当に信じられる相手とは限らない。
 それはそれとして彼には寝る場所を提供して、秘密結社の仕事まで斡旋してもらったというのにそれらしい恩も返せていない。信じる信じないも関わらず、私は――彼に恩を返すべきだろう。だがのどが、それを邪魔している。声にしようとするものならばその声はつっかえて言葉にならなくなってしまうからだ。ともかく今は、彼の問いにこたえねば。
「いうなれば、地獄です」
「……地獄か、君はそれを毎晩見ているのかい?」
「はい、寝る度に必ず見てしまうので眠りたくないのです」
 彼の後ろ姿を見上げながら正直に、事実のみを口にする。
 そうか、と彼が相槌を打った後で息をのむ音が聞こえた。たった数秒が数時間と思えるほど長く感じる。
「楽しいと感じた夢を見たことはあるかい?」
「ありません、私は……私には、その感覚を知らないのです」
「ありがとう、今宵」
 くるりと振り返り、いつも通りの優しい笑みを浮かべたスティーブンさんが目線を私の方に合わせるようにしてしゃがむ。そして長い指で私のメガネを外した後で私の額を羽のような心地で撫でてきた。 
「……いつか君が、天国のような夢を見られるようになるために力を貸したいが構わないか?」
「困ります、私、貴方に何もお返し出来てないですから」
「いいんだ、君がいい夢を見たという報告だけで十分だ」
 まるで、小春日和のような貴方。その暖かさを私に――向けて――向けないで――。
 私はまだ、果たすべき恩と役割を果たしていないから。
「……考えさせてもらうことは、大丈夫でしょうか」
「構わないさ、決定権は君にあるのだから」
「ありがとう、ございます」
 そして私は彼の手をそっと額から除けて起き上がろうとしたが、彼にやんわりと静止された。どうやら意地でも寝かせようとするらしい。
「とりあえず、今夜は寝るんだ。昼間の椅子から転がり落ちたところを見た以上休めと言わざるを得ないさ」
「でも……」
「大丈夫だ、目をつむってゆらゆらとボートに揺れているところを想像してご覧」
 大きな手が私の瞼を覆う。そしてわたしは穏やかな湖の上を浮かべているボートの上で揺れていることを、そうぞうしてみた。暗くて冷たい深い湖。私はその上を――ボートに乗って浮かんでいる
 息は深く、意識は洞に。そして――彼のこえが、とおく、なっていく。
 ああ、そうだ。ノート、スマートフォンのメモ、あとで、すてぃーぶんさんにみせ――ない、と――。わたしのやるべき、やくわ――は――証人として――しなないと――。

第四章 了 

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