/Tie me down
起動、確認。いつもどおりの朝がきた。今日の夢は目の前でスターの写真を破られる夢。メガネのレンズが体液で汚れることを気にせずに夢の中で掴みかかろうとしたがひらりと交わされて気づいた頃にはスターへの悪口と共に変わり果てた写真が目の前に落ちていく。何もできずに見ているしかないやるせなさと無力感をこれでもかと教え込まれた日々のリプレイ。ただ一人見上げている星が違うというだけで異端とされ、その認定を受けたものの存在は抹消されて後モノ扱い。本当に、よくある話だ。
「……涙は、ない。よし」
脳内が凪いでいることを確認し、手早く身支度をして小さな窓口から差し出されたパン一枚を頬張る。昨日おとといと変わりない儀式。紐育からヘルサレムズ・ロットと変わったあとから続く日常に変更はない。いつも通りきれいな制服を着て、与えられたタスクを淡々とこなす。今日のタスクは上司の周りを最近嗅ぎ回っている組織の情報を叩き込むことだった。警察関係、それと強く結びついている異界の組織、戦闘集団、秘密結社等の構成員の名前と家族構成、行動パターンに特殊能力まで脳内に入れた後それらが書かれた書類を焼却。そこまでが私に課された日々のノルマだ。淡々と機械のようにインプットして、証拠を消す。すべての書類が灰になったことを確認した後、時計を確認した。
「……」
自分自身をきつく抱きしめて、うずくまる。左腕の傷がしみて脳に「痛覚」信号を送った。三角定規で深く血がにじむほど傷つけた当然の帰結。それでもこれからやることに比べればどうということはない。むしろぐるぐると脳内で回っているよくないものが幾分か和らいできた気がした。
カツカツと革靴の音が響く。段々とその音はちかづいて、私のそばで止まった。
「時間だ、シェースチ。命令した情報は全部刻んだな」
「―――はい、記憶王様」
「よし、さっさと立ち上がれ。メンタルトレーニングの時間だ」
うずくまるのをやめて、立ち上がる。トレーニングを受け持つ人のところへとおもむろに足を動かそうとしたがなぜか今日は動かなくて、動かそうにも足首に鉛の枷をかけられたような感じがした。
顔は上げずとも立つように促した王の顔は、想像がつく。はぁ、と息を吐いた後男は低く唸るような声でいった。
「おい、サカモト。友達の存在を抹消しようとは考えていないよな?」
「――――――――」
「忘れられたくないよな、おまえは」
「……ハイ」
「みんなから無視されたくないよな」
「―――」
そうだろう、ん? と男は舐めるような声色で私に語りかける。たくましく節くれだった指が私の背を這った。
「もう二度と、授業中意図的に順番を飛ばされるような目に遭いたくないだろう? グループを作るとき仲間はずれにされたくないだろう? 発言自体、聞かれなかったことにされたくないだろう?」
あしが、すくむ。
勝手に脳がユメの続きを再生し始め、消えかけた感情が蘇る。涙腺が緩みかけるがすぐにひいた。緩ませたところで、何かが起こるわけないのだから。
「……は、はい」
「そうだろう、そうだろう!? 自分が経験した地獄を他の人に体験してほしくないだろう? 誰かから『忘れられる』という地獄を他の人に知ってほしくないだろう!?」
「――――は、い」
「――――なら、やるよな?」
「――――――――――は、い」
選択肢はない。背中を強く叩かれて精神を再起動させる。予め仕組まれたプログラムのように私はおもむろに目的地へと歩みだした。
◇
目的地へとたどり着いたときには、すでに何度目かの地獄が始まった。
床には消しゴムを使った跡と明らかに今日一日で出来る量を超えている書類。背後には簡単な作りのスピーカーが配置されている。そこから流れてくるのは音楽ではなく、私に向けられた罵詈雑言。マイク越しであるだけまだましだと思いたいがそれでも聞くに堪えないことに変わりはない。
たんたんと、心を切り落として書類作業をこなす。確認と修正を繰り返しては完成した書類を傍らに置く。メンタルトレーニングと言う名目での感情を削る作業はすでに慣れた。最初こそ泣き叫んで抵抗して逃げ出したがそんなことが無駄とわかって以降、泣くのはもうやめた。泣いたところで、痛みが改善することはないのだから。
書類の山が小さくなりあと少しところでドアの軋む音が聞こえたと思えばカツカツとヒールの音が近付いて来る。顔を上げると黒髪のロングヘアに赤いスレンダーラインのドレスをまとった彼女がわたしを見下ろしていた。
「サカモトさん、ちゃんとやってるようね。でもまだ足りないわ。まだこんなにも書類溜まってるじゃないの」
そう言って彼女――八角美和はバンバンとまだ手を付けてない書類達を叩く。書類を読めば本来は目の前の彼女がやるべき仕事である。恐らく、面倒なことが起こったときにまとめて私になすりつけるためだろう。こういう役割は、よくやってきたこと。ただの―――日常じゃないか。
「ごめんなさい、すぐ、すぐ終わらせます」
「そう、そのいきよ。また今日もできなかったらわかるよね?」
そう言いながら女は私の右手を押さえつける。きれいに手入れされた赤い爪が私の肌に強く食い込んでいた。彼女の目は煌々としていてまるで蛇のように私のことを睨んでいた。
「もし……できなかったらどうなりますか?」
「それはもう、教育よ。きちんと上の人の云うことを聞く。そのことだけが出来るようになるまでやるからね」
まぁ、サカモトさんなら多分この量は出来ないだろうけどさぁ。
にたぁと彼女は笑いながら私の右手を解放する。そしてバベルの塔のように彼女は何食わぬ顔で書類を更に積み上げた。
「じゃあ、よろしくね」
ひらひらと女は手を振りヒールを鳴らし部屋を出る。もとに戻った白い書類の塔を見て私はわずかに残っていた感情の回路を切断した。
案の定、書類の整理は時間通りに終わらなかった。完全に彼女は私に『教育』する気でこの書類整理などを押し付けたことは察してはいたがそのことを指摘しても無駄であることは明白。しかし課された仕事はきちんと終えなければならないためその後も黙々と資料を見ては手直しをして、確認をする。
「サカモトさんさぁ、もっと早く出来ないの? ただ確認してお直しするだけですよー?」
彼女から圧がかかるも手早くやろうとするとヌケモレが出てその後また書類絡みで現時点より最悪を更新しかねないのでそうもいかないがその旨を彼女に説明したところで情けをかけられるはずがないので口をつぐんだ。
「昨日も一昨日もその前もきちんと出来なかったよねー? ああいや、元々こういう作業はのろのろのろまだったよねぇサカモトさんは」
いつも通り変わらない罵詈雑言が聞こえてくる。実際に昔からこのたぐいの書類作業は苦手だったので彼女が言っていることは概ね事実、である。にやにやと彼女は口角を上げながら作業台周りをぐるぐる回っているが相手にしなければ、聞こえなければ実際に彼女がいってないことにかわりは――ない、はずだ。
「まぁいいけどさぁ。でも早くやらないとメンタルトレーニングの時間がただ伸びるだけですよ? サカモトさんがこうして五体満足でいられるのは私と記憶王のおかげだから間違っても脱走とか二度と考えちゃだめですよー?」
彼女は私の背後に回った後、舐めるような声と共に手を私の肩に置く。ただ手を置いただけでもどこかぞわりと冷たいものが走った感覚がした。
「二回も脱走してさぁ、事後処理大変だったんですよぉ。あんたがいた組織を監督不行届の罰として全部残らず潰して中央の虚に投げ込んだの」
その後彼女の口から語られたのは私が過去にいたジェストカヤ・プラヴダ参加組織の悲惨なその後。正しく『残酷な真実』という名前のような、最後だった。思い出もなく、ただ道具のように情報を入れられては目を覆いたくなるようなグロテスクなシーンと拷問のオンパレードの日常ではあったがそれはそれとして――すこしだけ、うしろがみがひかれるかんかくはあった。そして私の後ろにいる女が、とてもひとではないなにかにおもえた。
「部下を率いて叩いてミキサーにして、びちゃって投げ込むの本当に骨折れそうになったんだから。それにしてもいいストレス解消にはなったわね。『全部あいつが悪い』って皆揃って死ぬ前にいってたんだから」
ぜんぶあいつが、わるい。だれのことだろう。もう、どうだって、いま、わたしのめのまえには―――かみが、ある。
かみのしょるいでいま私がかくにんしているのは―――かぶそしき。みおぼえのあるなまえは、どこかに―――あれ、おんなのひとのこえが、きこえて――――――
「……それはそれとして、サカモトさんさぁ、聞こえてるの? 耳とか頭とか大丈夫? どうにかしたほうがいいんじゃないの?」
その言葉と共に肩に置かれた指が一気に食い込んできた。開いている彼女の手は私の耳たぶを力強くつまんでくる。ピアスを開けるときはこんな感覚だろうかと考えつつ彼女の怒りを買わない答えを生成した。
「ごめんなさい、仕事に……集中してました……」
「集中して進捗がこれ!? いや本当にあんたは使えないねぇ~!?」
生成した答えは彼女に合わなかったらしい。丁寧な口調は完全に消えて、彼女の撫で回すような声にハードでどす黒いものが滲み出す。その後盛大に大きな舌打ちの音が聞こえた。
「もういいよ、あんた。今日は特別フルコースだ。そのぐずでのろまでいつかは救われるという綿あめ脳みそを徹底的に潰すから」
そう言って彼女は私の服の首根っこを掴んで、そのまま机の上に叩きつけた。メガネが汚れてあまり目の前の景色が見えなくて、少しだけ私の脳がフリーズしたがすぐに問題なく駆動していることを認識する。じんじんと鼻と額に違和感が生じてきた。
「とりあえず書類は明日に持ち越すけど……あんたたち、来ていいわよ」
彼女の声を合図にしてぞろぞろと数多の足音が大きくなってくる。そして足音は私の机の前でぱらぱらと止まった。蔑むような言葉がちらほらと聞こえて来るが彼女の一喝によりそれはピタリと止まる。
「いい? 今あんたらの目の前にいるのは何?」
そう言って彼女は掴んだままの首根っこをぐいと引き上げた。途端、視界が明るくなる。目の前には多種多様の格好をした男たちがなにか物珍しそうな目で私を見ていた。
男たちは顔を見合わせた後、一斉に口を開く。
「……女の形をしたハードディスクだ!」
「つまりー?」
「ただの道具だ!」
「そう、ただの道具。道具なら勝手に脱走したり決められたタスクをこなさないなーんてことはしないはずだよねぇ!?」
「そうだ! そうだ!」
「じゃあ質問。いうこと聞かない道具はどうすれば直るか知ってる?」
彼女が男たちに問いかけた途端、私の体に衝撃が走った。冷たい床、大きな音、散乱した紙。やけにおおきな人たち。
―――何が起きたか、理解するのに時間はかからなかった。昔から伝わる壊れた道具に対する処置が、私になされたのだ。
どす、と私の腹に深くヒールの圧がかかる。幸いなにもたべていなくてよかったとどこか他人事で感じているわたしがいた。
「こうすれば、道具は言う事聞くようになるのよ。みんなの力を合わせればこの不細工な道具はきちんと言うこと聞くようになるわ」
このように、ね! と彼女の号令と共に鈍いものが私の体を直撃する。するどくて、ピンポイントで――■い。
「さあサカモト、もう逃げない? 逃げないわよねぇ?」
朦朧とした意識の中彼女の声が聞こえてきた。ゆっくりと、なんどもかくにんするかのように私はくびを縦にふる。それを確認したのか女はまたにたぁと笑みを浮かべてまた私のことを蹴り飛ばした。
「ほら、これは……あんたが悪いんだよ……! もうにげんな……!」
ほら、あんたたちもコレのこと調教していいわよ。とトドメの一発を私に喰らわせる。そして彼女は私に踵を返した後、何事なかったかのように何処かへと歩いていった。
「わかってるはずよね、ここが安全だってこと」
パタン、とドアが閉まる。確かにヘルサレムズ・ロットでは歩くだけでもいつひどい目に合うかわからない場所だ。それならこうして道具としていられるだけでも――まだ、マシではないかとすら思えて選択肢はないとすら考えるようになってきた。ぞろぞろと、男たちが私を取り囲む。値踏みするような視線、口が動く。なにをいってるかわからない。男の一人が私の襟元を掴んで、持ち上げた。
「――――――――――――――ない」
そういった途端、しゆういのひとたちはげらげらと笑った。そして、どこからか出してきた薬を瓶から一気に飲まされる。
「これは――王と契約した知り合いが――した――が――になる薬だ」
そう言われたとき、すべての感覚がクリアになる。目が、匂いが、言葉が、味が、皮膚の感覚が鮮やかになった。理解したくないものを私は今――感じている。
「どれくらい代償を払ったんだよてめーぇ」
「まぁ、提供元は今頃路地裏でニューロンパーリナイしてると思うぞ。……っとまぁ、なんというこった! こいつ涙出てるぞ!」
「大成功じゃん! そんならおもうぞんぶん……やり放題じゃねーか」
「やるはやるでもヤる方はだめだ。価値が下がると上からのお達しがあるからなぁ」
麻痺したものが、うごめいてくる。やめてくれ、やめて、やめてください。感情回路を切ろうとしても、すぐ別のところから生えてくるようでどうしていいのかわからない。目からはとうに枯れた液体すら出ていて、四肢はじんじん痛む。八方ふさがり、彼らが飽きるときまで待つしか、ない。
「そういやオクタヴィア、こいつと友達だったらしいけど実際どうだろうねぇ」
「最初から友とは思ってなかったらしいぞ。泣いてすがる様を見ていい気味だとかあぶれてるからしゃーなしとか異端だったけどしょうがないから救ってやったとか自慢げに言ってたからな」
「そう思うと温情に溢れてるよ彼女は。記憶王とか言う十三王まがいの存在へ一緒に庇護してもらうよう頼んだからね」
「そっかそっかー、ならなおさら感謝しないとだな。こつして四肢揃ったままいられるのはオクタヴィアと記憶王のおかげだもんな!」
ゲラゲラと、わたしのまえでわらっている。大きな手が乱暴に私の頭をわしゃわしゃした。
明確に首を横に振りたいが、無理やり縦にふらされることごめにみえてるので諦める。
「それならずっとオクタヴィアと記憶王に忠誠を誓わないとダメだねぇ」
「ならオレたちの云うことも聞くんだぞー? 確かなんて言ってたっけこれの名前」
「道具に名前なんてつけねぇだろ、つけたとしても刀のようにまだ愛着持てる段階じゃないし」
「でも記憶王はシェースチと呼んでたぜ? どっかの言葉で6とかってたな」
「んじゃあ6号だな! おい6号、オクタヴィアとはここに来る前から仲が良かったらしいがどんなことがあったんだ?」
教えろ、教えろと男たちが私達にせがんでくる。しかしその要求に答えられるだけの気力はない。彼らが要求する姿はまるで聞き分けの聞かない愚かな子供のように見えてきた。
きっと、黙っていればそのうち飽きてくるかもしれない。歪んだ顔を眺めながらただ罵詈雑言に耳を傾け続けることにした。
推測、妄想、マシンガン。誰からも無視されていたのを八角がすくって仲間にいれてあげたのだろうという事実で違う説。
その詳細を彼らは求めているが――はなせ、ない。彼女と親友であったことなんて。
聞いているうちに質問攻めは止み、無造作に首元が解放される。気道が元通りになり新鮮な空気が体内に入っていく。男たちは恐ろしいくらいに冷めた目で私を見つめた。
「……なんだ、喋らねぇのかよ。思い出話くらい聞かせてくりゃあよかったのに。お前が忘れてるわけなんざ、ないからなぁ」
そういって男はどこからか写真を取り出してくる。そしてそれを――ひらりと落とした。
「それを――どこで――!」
「どこでって、そりゃあネットでだよ。オクタヴィアから聞いたぜー? ずっと昔からファンになる対象の趣味が悪すぎるって」
私がずっと応援しているスターの写真。血と謎の液体でまみれた床にそれが落ちた。私はそれを慌てて拾おうとするが彼らは私の背を勢いよく踏みつける。
「ぐぁっ……!」
「こいつ、たしか基本的に一つのことしかできないんだろ? いろんなことが出来る人間のことをスターと世の中は云うんだぜ? 覚えておくんだな」
そして、別の男が私の目の前で写真を踏みつけた。躊躇いなく、ぐしゃぐしゃにして、あしをあげたあとには、よごれてゆがんだほしがあった。
「――――――――――――――――――――――――――――――!」
喉が枯れる。どうしようもないくらいに。
目から液体が流れる。たきのように。
彼らの冷たい視線が私に突き刺さる。得体のしれないものを見たような様子でひそひそとはなしはじめた。
「うわーここで泣くの正直ひくわー。泣いて許されることじゃないって君自身が理解してるはずだよね?」
「お願いに答えなかった相応の報いなんだよなぁ……ちゃんということきくって約束したはずだけどねぇ」
「……そもそもこいつに推しとかファンとかそういう概念あったんだ。まだ感情残ってるよこいつ」
「近づかんどこ……」
ぱらぱらと、男たちが三々五々と去っていく。ドアからひとり、またひとりいなくなる。
また、ひとり。
時間がかからないうちに冷たい部屋には私と写真だけが残った。鋭い感覚が柔らかくなっていく。薬の効果も消えていったらしい。
鈍い痛み、腫れ物扱い、昔のこと――侮蔑された星。よくある話であるはずだが今日に限ってはなぜか、とても痛く感じてしまった。
繰り返されたが故に痛みはすでに無いものであると認識していたはずなのに。震える手でそれを確認するためのカミソリをブレザー内のポケットから取り出して、左腕をまくる。
一筋、なぞる。赤い液体がぷくりと膨れて、鋭い感覚がいつも以上に脳髄を走った。
「あ――――い、いだい、いたい……」
ぽろぽろと、涙がこぼれおちる。封印していた死滅願望が蘇る。こうして生きながらえるくらいなら、外で無惨に死んだほうがマシだ。私の脳のその後なんて、知ったことではないのだから。
ドアの方を見てみる。わずかにそれは開いていた。それを確認するや私は写真を拾い上げて、歩き出す。血痕で脱走がバレないように左腕を抑えて、ドアと部屋の境界線をまたいで――開いている窓から体ごと飛び出した。
/Let it go
窓からの衝撃は、左腕の感覚で紛れた。しかし着地するときに盛大な音を出してしまったため他の人達に気づかれてしまい迷路のようなHLを雨の中駆け回る羽目になった。
――逃がすな、追え
――よりにもよって脱走しやがった
――この雨じゃ血痕を追えねぇ
走る、走る、走る。
後ろから怒号が飛んで私の胸にまっすぐ刺さるがその感触すら麻痺してどうということもない。
曇天の空からはざあざあと雨が降り注ぐ。体温が奪われていくがそれに伴う自分の体の不調はない。水がはねてスカートの裾も、タイツも、靴も重みを増していく。ただ無我夢中に走った。
どこまで逃げたか、分からない。
黒髪はほつれ、慣れ親しんだブレザーの学生服を見に纏い、赤黒く染まった左腕の袖を右手で無理やり押さえつける。
体は長く雨に晒されていたからか、震えが止まらない。それでも、私はただ歩くしかなかった。何故かはわからない。ただ、そうした方がいいと思ったからだ。街の人々や異界人たちは私のことを見ることはなく、一瞥してもすぐ興味なさそうに別の方向へと目をそらす。至極当然、なぜなら私のようなものが街を歩いているのは日常であり特段気にかけられるようなものでもなかったからである。
「――――嗚呼、何故」
深い霧に灰色の雲。ふと自分の後ろを振り返る。私がたどった道には赤黒い液体の跡が続いていて自分が受けた傷跡の深さを物語っていた。そこまで血が流れているはずなのになぜか私はこうして今、街中を歩いている。そして私を追っている悪い人たちはいないようだ。銃やおっかない武器や剣を携えた怖い人たちは、今のところいないらしい。
「何故、私は生きている――――」
自分の生を嘆きつつ、ただ歩く。自分の終の場所を探すために。
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