「……ここにいたのか、オマエさんは」
「まぁ、ちょっと色々あって流れ着きましてねぇ。流れに身を任せたらここにたどり着いた次第です」
「そっか。それでそのショットグラスにあるのはなんだい? 日本酒か?」
「水です。とても強い強いお水です」
「ああ……飲みすぎるなよ?」
「大丈夫です。まだ三杯目ですから」
「オーララ、それは飲みすぎだ。それでいてまだろれつが回っているのが不思議なくらいだ」
スピーカーから流れるジャズスイングを聞き流し、くいとショット内の液体を女は飲み干した。周辺に客はおらずただグラスの音のみがこの狭い部を反響する。すぐ隣の男はじっとその様子を見つつブランデーのロックを注文する。女はそれに便乗するかのようにスクリュードライバーを注文した。嘘だろと言いたげな初老のバーテンダーはすぐに顔を仕事人仕様に切り替えて手早くカクテルを女に、ブランデーを男に提供した。
「それで、お願い事ってなんだ?」
「ちょっとした憧れが、私にはあるのでそれを聞いてほしいという感じです」
「まあ、その憧れ次第だな。出来る限り何でも答えはするが……あの時のような願いはダメだ。オレを犯罪者に仕立て上げる用なのは絶対だめだ」
「大丈夫ですよぉ。流石に『私の自殺の手伝いしてほしい』というのはもうしません」
だからそういうところなんだよなぁ、と男は感嘆を吐く。ぽんぽんと大きな手で女の背中を撫でてやる。
「オマエさんはここにいるだけで充分なんだ。事実オレも蒼といる時間はとても楽しいし何より……愛しいアンタといるだけで幸せなんだよ、オレは」
「ありがとうございます、その、ですからそういうのを私に実感させてほしいといいますか……そういう類のアレです」
「そうか、でどんな憧れなんだ?」
ぐい、とオレンジの液体を飲み干して嘆息する。そして夢を見ているような調子で女は男に囁いた。
「愛する人にこっしょり触られたい、という憧れです。バーテーブルの下でその、おしりとか太ももとかねーっとりと触られたいなぁというアレです」
瞬間、彼の中の時が止まった。鮮やかな唇から、歌うようにして衝撃的な言葉が漏れた。
「―――パルドン?」
「二度も言わせたいんですかぁ? まるやまの夜の皇帝様?」
「随分と情熱的なことを言うもんだなぁオマエさんは。でも酔ってるんだろぅ? 普段言えないからこうして酔ったときに言ってる。そうだろ?」
「そーですけど、なんでそんなことぁいうのですかぁ?」
「オマエさんを大切にしたいからさ。酔った調子でやらかしたらオマエさんが後悔するだけさ」
ぐ、と男は一口だけいつの間にか頼んだブランデーを飲む。ごくり、と太い喉にある突起が動いた。ああ、と女は感嘆しくてんとバーテーブルに突っ伏した後に男を見た。
「やだ、わたしずっとあなたに唐突に触られたいの。ずっとまってるのにぃ。」
「……あのなぁ、酔った状態でこれ以上は言わないでくれないか。蒼を円山町に食べ散らかされたあと特有の虚無感に浸らせたくないんだ」
「しってる。わかってます。でも、でも……貴方が、いいの。貴方に食べられたいの」
ぷすー、と空気の抜けるような音がした。もう諦めたのか女は水とモスコミュールを頼む。目はとろとろで、ふっくらとした口は中途半端に開かれているが今まで飲んだ酒の入っていたグラスと水用のコップはきちんと並べられている。ちょっとだけ何かを思い浮かべたと思ったらすぐ向き直り
「ごめんなさい、ごめんなさい。あんなことを希ってしまって」
とわびながら女は男の顔から顔をそむけた。そして差し出された水を一口含んだあと、ちびちびとモスコミュールを飲み始める。
「……」
かとん、とグラスをテーブルに置く。白くて細い指が結露したグラスから離れた時を見計らったかのようにして男の手が重なった。薄暗い照明の中で細い右手にごつごつと大きな左手が覆うように添えられている。女がすぐ酔っ払い特有のとろりとした目に切り替わったのを見て男は言った。
「今は、だめだ。いつかまた叶えてやるからなそういうことは。そういうことを今やったら……いや、今はもう無理そうだ。今すぐにでも、ふたりきりの世界に連れ去りたいくらいだ。今のオレは……」
ちゅ、と大きな唇に女の白い手が引き寄せられて、あとを付ける。そして自分がここにいると言わんばかりに白シャツと黒いベストで包まれた自分の厚い胸元に彼女の手を当てた。とくどくと早鐘を打つそれが彼女の手を伝っている。青空のような目はギラギラと鋭くなりつつあるが漏れる息はそこまで荒くはない。
「―――あ」
「流石にここじゃだめだ。ここいらへんで切り上げて別のところへと行くかい? そこでなら蒼の望みが叶えられるが……」
「おねがい、おねがいしますムッシュぅ、つれてって、私をつれてってくださぃ」
「決まりだな」
ぐ、と二人は残った酒を飲み干して代金を支払う。そしてアイに染まりつつあった街へと飛び込んでいった。そして、バーテンダーは少しだけ呆然としつつも自分の仕事を続けたのだった。
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