5-5

 何事もなく彼の家にたどり着く。彼のもとに転がり込んでから暫く経つはずなのにまだ慣れそうにない。
 綺麗に整頓されている部屋も、あたたかいお手伝いさんも、比較的やさしい家の主も。それらは誰かにとっての当たり前なのかもしれないが私にとってそのあたりまえは画面の向こう側の存在なのだ。故に、未だにどう反応すればいいのかわからない。
「ゆっくり、おやすみ」
 彼に促されるままソファに身を委ね、うずくまる。スティーブンさんは自分の寝室へと駆け足で戻り、珍しくドアを勢いよく閉めた。
 夢のような一時が終わってからも私はあの密室の出来事を繰り返し、繰り返し脳内で再生している状態だ。まさかあんなにも密室というものがいいものだと思わなかったし、それに――あのスティーブンさんの顔がこびりついて離れない。あの顔、あの言葉、あの声。鮮明にさっきあったかのようにリピートし続けている。やっと、この異能に感謝できるときがきたのかもしれない。嬉しい記憶、夢のひとときがくりかえし、くりかえす。なんて――便利なのだろう。どうして、ずっと気づかなかったのか。こんな簡単なことに。
 ぐるぐる、ぐるぐると黒いものが胸の中から溢れ出してくる。これ以上はいけない気がしたので思考を切り替えるべく服を寝るときのそれに着替えることにした。買ってもらった服を脱いで丁寧に畳み、彼に用意してもらったシンプルな寝巻きに着替える。しかしそれだけで眠れるはずはなく、ましてや目を瞑り悪夢に戻るなんてことはできるはずがない。
 気を紛らすためにスマートフォンを開いて適当にネットの海を泳いだり、画像フォルダの中を探る。とりとめのない情報と日本に居たときから追いかけているスターの現在地点、今までとった画像。スターは遠いところまで現在進行系で歩んでおり、フォルダの画像に新鮮味はない。もうスマホを閉じてこのままぼんやり天井を見つめようかと思ったが、通知がショートメッセージの到着を知らせてきたためそれを見てからスマホを閉じることにした。
「こんな時間に、誰?」
 差出人不明、見るからにフリーダイヤル。また架空請求かと若干呆れつつ一番上のメッセージをタップした。
「――――え」
 内容を示す画像は友坂鴿也3つ。なんのことかわからない。
 明らかすぎるいたずらメッセージに脳内に警鐘ががんがんと鳴り響く。
 その横にはダイヤモンドの絵文字。理解してはいけないものと察知して、何を示すのかすぐに理解してしまった。
「666……黙示録の数字……」
 ダイヤモンドは野球のフィールドの別名。友坂鴿也は遊撃手。野球にて遊撃手に割り振られる番号は6。それが3つで666。
 そして666は聖書における獣の数字であり――俗説では皇帝ネロを示すことがあるらしい。
 ゆっくり、ゆっくりとメッセージをスクロールする。どうかただのいたずらであってほしい、杞憂であって欲しいと祈りながら指を動かした。
「お願い、どうか、どうか――」
 画像の後の文章を読む。すべて英語で書かれていたが当然のごとく、わかってしまった。

【忘れたとは言わせない。忘れているはずがない。コヨイ・サカモト、オマエを 見てるぞ】

 声が出そうになるがすんでのところで止める。事実でなくとも私を見ているという文字は背筋に何かが這いずり回るような感じがした。それに続いて通知音はせず一枚の写真が送られてくる。
「嘘……でしょう……」
 そこにあったのは私がスティーブンさんと一緒に帰っているときの写真だった。いつの間にか撮られていたらしい。

【オマエが横の男と一緒にいるのはわかっている そいつに酷いことをしてほしくなければ3日以内に コニー・アイランドの観覧車前へこい】

 心臓が早鐘を打つ。違う、こんなのただの偶然で、きっと何かの悪すぎるドッキリだ。
 そう思ってショートメッセージを消そうとした瞬間、見計らったかのように着信を告げる画面に切り替わった。番号は非通知。恐る恐る私は緑のボタンを押して電話に出た。
「久方ぶりじゃあないか。コヨイ。私だ。レクス・メモリアエだよ」
 あらゆる者に対し苦労しながら愚弄するような声。巻き舌、ラテン語の名前。―――記憶王、だ。何故彼がこのライブラ支給の電話にかけている!?
「……」
「どうだ? えんざい……めんざい? されてる気分は」
「あ……」
 こえ が でない。ことば すら でない。
「まあいいや、コヨイ。その調子ならまだ戸惑っているようだな。周りはみんな忘れているのに自分だけ覚えている。つらいだろうなぁ……私もそうだったし君もそうだろう?」
「あ……は、はい……」
「そうだろうそうだろう!? まったく人というものは……すぐ黒歴史として忘却したり人のしてきたことをなかったコトにしたり……まったく呆れるものだよ」
 まったく、黒歴史認定ダムナティオ・メモリアエは悪い文明だよ。人が忘れようしたという事実が残ってしまうから。
 そういって記憶王レクス・メモリアエはうんうん唸る。
 そうだ、忘却は憧れではあるが――私がされてきたことでもある。なかったことにしたりされてたりするのは嫌だ。でも―――戻りたいとは、思えない。そもそも、本当に彼が電話口で喋っているのだろうか?
「あ、はい、わすれられるのは――いや、です」
「そうだろうな、オマエは周りの人間から『いなかった』ことにされ続けたからな。オマエも誰かを『いない』扱いをしたくないだろう?」
「はい、いじめっこたちがしてたことを、したく……ないです」
「そうだろうな、そしてオマエがいる場所もじきオマエ自身を居なかったことにするだろうな」
 ――そんな、ことは、信じたくない。
 仕事を終えるまでの間であろうとも、きっとライブラの人たちは私のことを見捨て―な―いや――ちがう――しんじ、たいのに――すなおに首を縦にふれな――い――。
「信じた人に裏切られ、ゴミのように捨てられる。人生やら人付き合いってそういうものだ、ミズサカモト、忘れているはずがないよな?」
 その言葉で八角と出会ったことを思い出す。最初はよき友達で共通の趣味で盛り上がっていたはずが、流れで私を―――先導者になって――それで――そうだ――すっかり目をそむけていたのかも、しれない。
「……はい、忘れていませんしそもそも私は忘れることを知りません。だいじょうぶです、だいじょうぶです」
「そうだ、大丈夫ならいけるな? オマエをいい職場に案内してやる。金もたんまりもらえるぞ」
「しょくば……」
「ああ、オマエを使いたいという人が集まって競り落とす。使いたいという人たちはまあ、いいところだ。何なら資料……はだめだな。オマエのそばにいる男が厄介だ」
 きっと、オークションのことだろう。本当に彼は私をオークションに出す気だ。
 私はただ声を出さず電話口の向こうの彼の話をじっと聞く。
「いいか、とにかく3日以内、コニー・アイランドの観覧車の前で待つように」
 そういって彼はぶつんと電話を切った。私は胎児のようにうずくまり、ただ目を開いたまま夜明けを待とうとした――が、彼はそれを許しはしなかった。
 ぴちゃぴちゃと水音がする。ほっぺに何かがついたのでこすり取ったら黒い泥。ゆっくり、ゆっくりと振り返る。そこには――男がいた。
「久しぶりだな……コヨイ・サカモト」
 男は部屋の中に突如現れた黒い泥の中から姿を現した。私は慌てて立ち上がり彼を見る。栗毛のくせ毛に月桂冠の冠、そしてそれに似つかわしいとは思えないスーツ。彼――記憶王は変わらない姿のままそこにいた。
「……どうして、そしてどうやって来たのですか」
「知っているはずだ、一種の転移でやってきた。血界の眷属ブラッドブリードに転化したときにこれ黒泥の如き血を得てからずっと使っている」
 記憶王の足元に泥が収束して、消えていく。そして男はここが我が家であるかのように向かい側のソファにどかっと腰掛けた。
「そしてどうして来たかという問いについてだが、オマエがこのまましらばっくれて逃げるのを防ぐためだ。要は警告、いつでもどこでも私は君を監視している。元に二度も逃亡失敗しただろう?」
 思い返せば、遠くまで撒いたと思ったらその度に連れ戻されていた。紛れもない彼の手によって。
 一度目はたった一日で逃亡生活は幕を閉じた。二度目は3日で終わった。今度こそ撒いたと思ったらアジトに連れ戻される羽目になった。あの狭い路地裏を移り住んでも彼は突然現れて連れ戻される羽目になる。
 それほど彼は索敵能力が高く、そして――おそろしい。
「この残酷なる真実ジェストカヤ・プラヴダレクスは私だ。この私から逃げようと考えるな。3日……6日の辛抱だ。そうすればオマエは新天地で働くことになる」
 まぁ、競り落とすのは私の忠実な部下たちであるがな。
 そういって男は手を突き出して私の方に向ける。途端彼のスーツの袖から赤い紐が飛び出して来て私の首に巻き付いた。
「っあ……!」
「声を出すな。スティーブンに知られたくないだろう?」
 ぎちぎちと紐が、きつくなっていく。さんそが、たりない。そうだ、スマートフォンを……彼に、れんらくをしないと。
 てをのばす。しかしスマートフォンは思ったより遠く、そして――しかし、とどかない!
「最近は電話とかいうどこでも喋れる機械があるんだったな。まぁ使わせんし私とあったことを喋ったら死ぬより酷い目に遭わせるがいいんだな?」
「あ……いや……」
「いやだよなぁ、それなら言う事聞けるよな?」
 もう、このばだとかれにはさからえない。さからうきすらおきない。そもそもさからうことじたいまちがいなのだろう。わたしはただこくこくとうなづいた。そうしたらかれはまんぞくしたようにほほえんで、わたしにいいつけた。
「逃げたら彼にも同じことをする。3日以内、必ずこい。いいな?」
「――は、はい、わかりました。……わかり、ました」
「ベネ」
 男は乱暴に紐を緩める。そして足元から再び泥を出した。
「必ずこい、コヨイ。利口な君なら大丈夫かもしれないが……」
 ずぶずぶと男が床に沈んでいく。それを見届けた後で私はへなへなと床に座り込み、眠気がどっと押し寄せてきた。
 冷たい床が、心地良い。慣れ親しんだ感覚、そういえば逃げているときもこうして寝ていたような気がした。
 ゆっくりとまぶたを閉じる。最大の悪夢を目の前で見たからきっと寝るときはすくなくとも前よりマシな夢を見るだろう。そう祈った後私は意識を手放した。

 第五話 終

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