ノートは夜を告げた。
ツクヨミは穢れを厭い、もてなしたものをころした。
ニュクスは災難の母となった。
ヨワリ・エエカトル――テスカトリポカは、生贄を求めた。
一年分の幸福は得られましたか?
たくさんいい思い出は作れましたか?
じゃあ、その頭は然るべきところに捧げましょう。もうすでに時はきたのだから。
第六章 忘却記憶 ザヴウェーニェ・パーミチ
◆◆
そっとドアの向こう側で聞き耳を立ててみる。あのとき急いで今宵のもとから去ったのはずっとその場所に居たらどうにかしてしまいそうだったから。無論僕はそんなことをしようとは思わない。するとしたら――彼女と思いが通じ合ったときだろう。最初こそオクタズ――裏オークションと異界の違法技術「ニ・ザヴウェーニェ・パーミチ」に関する情報を求めるために彼女と接触――もとい保護した。ただの協力関係。それだけでよかったはずだった。
何故聞き耳を立てているのか、何故彼女を観覧車に誘ったのか、何故ライブラと引き合わせるときに「道具じゃない」と彼女に向かって激昂したのか。問われたらすぐに理由は言えるがそれでも別の僕が「それもあるが、別の理由もある」と言ってくる。彼女が心配なのはただ死なれたら情報が得られなくなるからでもあるがまた別の理由がある。協力関係であれば――観覧車に誘うなんてことをしなくていいはずだ。ましてや監視という名目で彼女のそばにつくことをすべきだ。既にそうしていてそうしていない理由は自分の中でわかっている。ただ――認めてしまえば仕事と私生活の領域があやふやになっていくから今はまだ、だめだ。
しかしこうしているうちに静かに彼女――今宵に何かしらあっては困る。今までは悪夢のみで済んでいたが今日もそうとは限らない。であるならば――いつも通り彼女を見守るべきだろう。そう思ったときには既にドアを僅かに開けていた。隙間から部屋の様子を伺ってみる。
「―――コヨイ!」
彼女の体が中に浮かんでいる。首元には赤いグロテスク文様のような紐。それをたどると一人の男に辿り着いた。ローマ皇帝がスーツを着ていた。何かのドッキリであってほしいが今宵のうめきと表情からしてそれは違う。一体誰なのかわからないため内ポケットから鏡で男の姿を移してみた。
「――映らない、か……」
血界の眷属。それが今彼女を襲っているのは明白。しかし僕はそれを完全に封じ込めたり撃退するだけの力はない。あくまで時間稼ぎだ。飛び出したところで彼女を救えるかどうかは不明。データなどないが、踏み込んで彼と彼女を引きはがすしか無い。ドアノブに手をかける。正真正銘の賭けであるが――彼女を連れ戻されては正直困る。
「……やるしか、ないか」
ぐい、とドアノブを回す。それと同時に何か鈍い音がした。隙間から覗くと彼女が膝から崩れ落ちた音だった。既に彼女の首から糸はなく、血界の眷属も何処かへと消えていた。
「いったか……」
念のため音を立てずにドアを開いてリビングへと足を踏み入れる。まるで不法侵入者がいなかったかのように綺麗で、手がかりすら残ってない。手持ちのスマートフォンの明かりを頼りに今宵を探してみたらすぐに見つかった。ソファの傍らに床で寝ていた。まるで死んでいるかのように微動だにしない。首筋をよく見ると先程まで首をしめられていたと思しき痕がはっきりと残っていた。紐に飾りがあった影響かその跡はまだらになっている。首筋と胸元がかすかに動いていて、呼吸の音がしていて確かに彼女は「生きて」いる。それが救いだった。
ソファの上に目をやると画面がついている彼女のスマートフォンがあった。画面を見るとショートメッセージが表示されている。スクロールするとそこには脅迫文とコニー・アイランドのときに撮られた写真が送られていた。血界の眷属と彼女を襲った男の正体。関連性はあるのかもしれない。ひとまずは今宵が目覚めてからの話になりそうだ。
一通り情報を整理しつつ彼女を横抱きにして自分の部屋へと連れて行く。思ったより事態は重く静かに進行しているかもしれない。そっとだらりと下がった彼女の腕を彼女の胸の前で組ませてやる。僕が贈った寝巻きの袖がめくれたので正そうとしたが赤い跡が、見えた。ゆっくり、彼女を起こさないように袖をまくってみる。
「――なんて、こと、だ――」
そこには無数の傷跡があった。切り傷、火傷、擦りむけ、青あざとありとあらゆる跡があった。
見るだけでも痛々しく、特殊メイクと信じたいほどだったが彼女の手持ちの荷物にはそれ専用のものもない上に現在進行系で包帯が巻かれているのであればきっとそれらは「本物」だ。
彼女が歩んだ道のりがぼんやりと浮かんでくる。自分でつけたか、第三者からつけられたのか分からないが少なくとも彼女の負っている傷は、それだけではない。それを自ら付けた過程、並びにつけられた過程に踏み込まねばならないだろう。そして――彼女が隠している事柄にも。
「……」
無言で彼女の袖を直して、部屋にたどり着く。そっと彼女をベッドに寝かせた。彼女の寝顔を傍らで眺めながら僕は彼女の「痛み」に思いを馳せた。
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