坂本今宵が、僕の目の前から姿を消した。手元には彼女から押し付けられた一冊の文庫本サイズのノート。物言わぬ証言の塊は今、僕の手の中にある。
もっと、彼女と面と向かって話をすればよかったか――しかし、彼女は現在進行系でレオナルドのときと同じような出来事にあっている可能性が高い。話をするなと言われているからこそこの日記帳に託したのだろう。あわよくば――絶対記憶絡みの重要な供述があるのかもしれない。ただ彼女が現在進行系で書いたわけではないためどこまで有力かはわからない。しかも、日記を覗くということ自体彼女のプライベートや知られたくない領域まで土足で踏むこむことになるので非常に抵抗はある――が、踏み入れなければ情報を得ることは出来ないし彼女という人間を知ることも、できない。
「ごめんよ」
目の前にいない彼女に詫びてページを開く。綺麗な文字で綴られていたのは非日常の中にある日常の一欠と彼女の苦悩だった。かけらはレオナルドやザップ、ツェッドたちと一緒に昼ごはん探し珍道中したこと、チェインとおすすめの映画について話し合ったこと、KKに連れられてスーパーのはしごをしたこと、クラウスやギルベルトさんと一緒にコーヒー談義をしたこと、――俺とのひと時が、安心することだった。そしてそれらの出来事を綴った文章は『寝る時の夢に、でてきてほしい』で締めくくられていた。
「――――今宵、君は……」
ノートの紙にシワがよる。円形によれている部分が頻繁に顔を出す。赤いシミが、ぽつぽつと浮かんでいる。これの持ち主がどのような気持ちだったのか言葉にするまでもない。幸せなひと時以外の記述は、映画の中の世界であって欲しいくらいの地獄だったからだ。渇望して手に入らなかったものをフィクションに見せびらかされたこと、毎夜夢に見る過去の話、フラッシュバック。以前彼女から聞いた『昔』の話と同じようなものであったが――彼女の痛みへの耐性のことを考えるとやりきれなさがさらに増していく。
『悪夢を見た。また同じ夢。集団で私を寄ってたかって罵声を浴びせてくる夢。慣れたけど、できれば見たくない。ずっと頭の中に残ってるから忘れたくなる』
『でも身勝手なことで忘れるのはだめだと認識している。忘れちゃいけないことまで忘れてはいけないから。そうしろと、王様が言ってたから』
『今日見た夢も、よくある話だった。人と好きなものが違うだけでとやかく言われて、いなかったことにされる夢。どこいっても同じだったから残酷なことにきっとよくある話、なのだろう。私はやりたくもないが』
人と少しだけズレていた、そのズレは好みの問題から来るものだった。それが切欠でいじめられ、自分を繰り返し傷つけて、『よくある話』で無理やり自己完結した。それらが彼女の言う『よくある話』であろうとも、そうであっていいとは限らない。むしろあってはならないものだ。そうしなければならなかったにせよ――彼女はもっと前から泣き叫んでも良かったくらいだった。
また、彼女が突然拉致されたときのこと、予告なく来訪者がきたときのこともきちんと書かれてあった。ここだけは、ミミズのような筆跡になっている上に酷く文字が滲んでいた。湧き上がるマグマのような情を氷で冷やしながら、ページを捲る。
『――やっぱり、脱走なんて無謀だったのかもしれない。死にたいから逃げ出したつけが回ってきただけなのだろう。でも、死んだらライブラの人たちに迷惑がかかるから死ねない』
『やっぱり、八角さんに従っていたほうがよかったのだろうか……?』
『また、スティーブンさんに言えなかった。彼らが求めている記憶王のこと、ニ・ザヴウェーニェ・パーミチのこと。情報提供が仕事なのに言葉が出ない。早く言わないいけないことはわかっているけど、連れ戻されて死ねなくなるのは嫌だ』
『記憶王がやってきた。無理だ。あんな危険な目にあってほしくない。彼らが修羅場をくぐってきたことは理解しているが、それでも私一人のためにこんなこと――いや、彼らは気にしないかもしれないが私が、私が気にするだけだ。エゴにもほどがある』
やっぱり彼女が言えない理由は、記憶王にあったか。おそらく怖い目にあわせたうえで約束させたのだろう。それだけでも今すぐ彼女を捜索しにいきたいが何も用意せずに勝手に動いてはいけない。はやるきもちを抑え込み更に、深く読み進める。最後のページに辿り着いたとき僕は思わずノートから手を離してしまった。
「……こんなことが、あって、たまるか……!」
徐ろに床に落ちたノートを拾い上げ、網膜に焼き付けるように書かれた文字を追う。
「『私に初めて優しくしてくれたスティーブンさんが、大好きです。愛して、ます。今までありがとうございました。そんなに役立たてなくてごめんなさい。こう書いたら怒るかもしれませんが道具としての役割を全うできなくて、ごめんなさい』」
追うのを終えた途端、彼女と過ごした日々が再生される。泣き顔、観覧車の笑顔、日常一コマ、路地裏の出会い――すれ違い。もっと、もっと今宵の顔を見たい。今宵の笑顔を、見たい。それはきっとエゴであろうとも――僕は、それでいい。彼女が安らかに眠れるのなら、それでいい。
「怒るさ、君に――君をそんなこと言わせたきっかけに――」
告白の下には細かい組織並びにオークションの詳細、そして――計画の断片。これだけあれば十分だ。
怒りは胸に、頭は冷静に。夜の空気を肺に満たして目を閉じる。脳裏に彼女が安眠に浸る空想を浮かべ、カットして目を開き――スマホの電話アプリを開いた。
6.66 KINGPIN for shect’ end
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