大きなガラス越しに入ってきた光が閉じた瞼を通り越して瞳へと入っていく。何があったのかを確かめるべく目を開くとそこは記憶の片隅にあるようでない部屋だった。壁は砕かれた岩によって作られたコンクリート、部屋の中には規則正しく並べられた椅子と机がある。大きな窓の向こう側にある西の空はまだ紅に染まっておらず淡い青。これから長い時間、私はこの合法な監獄の中で過ごすことになるのだろう。
時計は七時半。壁に張られている時間割と照らし合わせるとまだ朝のホームルームまで時間はある。それもあってか私の周囲にいるクラスメイト達は自習をするものもいれば大半は余裕そうによくわからないような話をかわしていた。交友関係、噂話、共通の趣味と思しき話。既にグループは固まっているようで私という異物が入るスキはない。私だけいないものと扱われて、かつ二度と手に入らないものを延々と見せ続けられている映画を見ているような感じがした。
幸いなことにこの教室は出入りが自由らしい。何人かこの教室から脱出してどこかへと向かっている。であるならばと静かに会話の邪魔をしないように立ち上がり、重いブレザーの感触を確かめながらふらふらと、覚束ない足取りで誰もいない静かな場所を探すことにした。短時間で見つけなければならないのだが――何故か、体だけは覚えている。何も考えないまま体に身を任せていたらそこは、鍵のかかっていない空き教室に行きついた。しん、としていてがらんのどう。まるで私だけが、幽霊になっているみたい。
ふと、生きている感触を確かめたくて/目の前の選択肢に当たり前のようにそれがあってブレザーの内ポケットをまさぐってみる。出てきたのは固い直角三角形の定規一つと、ドラッグストアにて格安で売られているようなカミソリ一本。どれもひどいくらいに見覚えがあって――何回か用途外に使用した痕跡がある。丁度いい。夢かどうかを確かめる機会だ。
ブレザーを脱いで、ワイシャツのカフスボタンを外して袖を肘のあたりまでまくる。左腕には何本か変色した直線が引かれていた。
手始めに三角定規の三十度の角度の部分を左腕の外側に強く押し当てる。痛みは、ない。
いつも通り、手順通りにその力のままに、す、と一気に内側へと引いた。数秒だけ遅れて赤い珠が光沢と共にその跡から滲み出る。痛覚は反応しない。これは、夢だ。そうだ。これはなんてことのないよくある悪夢。麻痺しているだけかもしれないがそうとわかればただ、たやすいこと。幾つもの赤い痕跡をひいてひいて、ひいて――左腕が切り傷だらけになろうともなんてことはない。夢中になって幾度も線を腕につけて気づいたら左腕が赤い線で染まっていた。ワイシャツへの影響は今のところなさそうだ。だがここまでやってしまえば夢の中でとはいえ悪影響を及ぼすのも時間の問題だろう。とりあえず誤魔化すためのばんそうこうは――あった。適当に赤がにじみひどいことになる前にどうにか押さえつける。
ぺたぺた、べたべたと何とか枚数は間に合って傷跡の処理はどうにかなった。始業のチャイムが鳴るまで少しだけ余裕がある。ブレザーを羽織り、生きているという感触がしないまま廊下を規則通りに静かに歩いて教室に戻る。どう考えても仕方のないことを後ろ向きに、目立たないようにうつむいて考えながら歩いていたがなかなか歩が進まない。否――物理的に、進みそうにない。
「おや、おはようございます。名字さん」
突然、上から優しいテノールの声が聞こえてくる。とっさに口角だけの笑顔を浮かべて徐に顔を上げたらそこには、やけに目立つ男の人がいた。銀髪のオールバックに、彩度が低く明るい肌。やけに目立つ緑と赤の瞳に大柄な体を覆うスーツ。そういえばこんな人は私の学校に――いた、そう、多分いたはずだ。フランス暮らしが印象的だったと云うイタリアの――いや、いたか? 否、今はそんなことはどうでもいい。
「お、おはようございます。教頭先生。それとぶつかってごめんなさい。きちんと前向いて……」
「いいのです、今度から気を付けてくださいね? ああそれともうすぐ朝のホームルームが始まりますが……時間は大丈夫なのですか?」
ほら、と先生が腕時計を私に見せる。時間は10分前を指していた。まずい、思ったより――非常にまずいかもしれない。
「急ぐように歩けば、多分平気です」
「そうですか、では――早く行くのですよ。名字さん」
そう先生が促したので一瞥だけして今度こそ教室へと戻る。ほんの少しだけ名残惜しいが規則は規則だ。どこかで会ったような気がする教頭先生の姿が網膜に絡まる中、歩を進めて教室へと戻る。椅子に着席した瞬間、チャイムが鳴り響いた。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます